“辞めるということ、止めるということ、について”

この文章は、日本を代表するバッハ歌いとして知られるテノール歌手であり、また合唱指導者として宗教曲の分野で驚異的な業績を上げられている、佐々木正利さんが執筆されたものです。
 
僕が2014年1月13日に出演させていただいた、仙台宗教音楽合唱団の定期演奏会のプログラム冊子に佐々木正利さんが寄稿されたものですが、僕はとても強い感銘を受けました。僕の事にも言及して下さっているのですが、だからではなく、佐々木さんのキリスト教徒の関わりあい、音楽との関わり合い、社会との関わり合い方に触れ、この佐々木さんの思いを、より多くの方にご紹介したいと思いました。
それで、佐々木さんに特別にお願いし、ホームページへの転載をお許しいただいたものです。佐々木さん、ありがとうございました。


 ”辞めるということ、止めるということ、について”         佐々木正利
 みなさま、ほんじつはご多用中のところ、わたしたち仙台宗教音楽合唱団(以下、「宗音」と略)の演奏会に足をお運び下さいまして、まことにありがとうございます。宗音の常任指揮者を拝命しております佐々木正利です。思えば、ドイツ留学から帰国した1982年の11月より合唱団の指揮・指導を担って参りましたので、早31年が経過したことになります。ほんとうに、あっという間の31年でしたが、多分、何年か前の定演プログラムにも書いたと思うのですが、わたしにとって宗音の指揮者になるというのは、それ以前に定演でソリストを務めさせていただいたことがあったとはいえ、青天の霹靂とまではいえないまでも、とてもドラスティックなことではありました。思えば、その年の5月4日・・・
 わたしは、東京は文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われるロ短調ミサ曲演奏会でソロをするため、上京していました。そのわたしに相談があると、仙台宗教音楽合唱団の東海林優子(現性、鈴木)さんから連絡が入り、本番前だったと思うのですが、目白の喫茶店で待ち合わせしたのでした。そこにはすこし優男ふうな見知らぬ青年も同行してきていました。優子さんとは、以前宗音の定演で、ブクステフーデの『われらがイエスの御体』の演奏会でご一緒し、日本を代表するソプラノ歌手の常森寿子さんにも勝るとも劣らない清潔な声で第二ソプラノを担われ、彼女が高校の教員(尚絅女学院)であることをお聞きしとても驚いたものでしたが、前年に突然、宗音指揮者を辞められた創立者の佐藤泰平先生のあとを暫定的に継がれ、いまは指導の任にあたっておられるとのこと、また同行の青年は加藤宏朗さん(現山形大学工学部教授)と仰って、優子さんとともにそのときの宗音を支えていた方ということで、そのお二人が、突然わたしを訪ねてきたというわけでありました。と、お二人曰く・・・
 「泰平先生が突然辞意を表明なされたのが1年ほど前、理由をお聞きしてもなかなかはっきりとは申されなくて、翻意を促すこともままならず、なんとか凌いでここまでやってきたのですが、ドイツバロックの専門家である佐々木先生が盛岡にお帰りになられたと聞いて、これはもう神からのプレゼントだと・・・。この窮地、なんとかお救いいただきたく、是非常任指揮者に就任していただきたいのです」と。思えば、宗音をここまで育て上げられた泰平先生といえば、わが恩師小林道夫先生と対等にお話しなされるすごい人、5年前にはわれらが憧れのヘルムート・リリング先生のお招きでドイツへ演奏旅行をなされた辣腕者。その泰平先生の後釜として、こんな未熟者のわたしが期待に応えられようもなく、もう二つ返事で断ったのでしたが、かのお二人の熱意たるや、それこそ尋常ではなくて、たしかに芸大カンタータ・クラブの指揮者を務めていたとはいえ、なぜに斯様な未知数のわたしに託されようとなさるのか。わたしには噸とわからず、しかしながら、わからないときや迷ったときはやると決めている自分がそこにいて、いつの間にか首を縦に振っていたのでありました。あれから30年余・・・
 昨年の6月に盛岡で「日本音楽表現学会」の全国大会『イーハトーヴ大会』が催されました。その大会実行委員長をわたしが務めたのですが、基調講演とワークショップの講師を泰平先生にお願いしました。宮沢賢治の地元岩手での大会に、まさにふさわしい、賢治の音楽研究の第一人者であられる泰平先生に、賢治の音楽や文学の魅力を解き明かしていただこうと依頼したもので、講演のテーマは『”賢さん”の音楽表現〜〈マサニエロ〉他をめぐって〜』であり、また『童話「かしはばやしの夜」を上演しよう!』としたワークショップも含めて、参集した学会員はわれを忘れて見入り、聞き入り、演じ切ったものでした。その折りに、先生が創立された仙台宗教音楽合唱団の指揮者をわたしが拝命してから早30年以上となり、13年でお辞めになられた先生の、優に2倍以上もわたしが携わっていることへの感想は如何に、またいったいなぜに先生は宗音を辞められたのか、それについてもお話ししてくださるよう促しました。しかしながら、それに対しての明確な答えを得ることはそのときもできませんでしたが、すくなくとも、1980年くらいから「宮沢賢治の音楽」「日本の古いリードオルガンの調査・保存・演奏」をライフワークにしたいと考え、その実現に、より良い環境を求めたのだ、ということはわかりました。そのために、宗音の指揮者を辞任することも止むなしと、泰平先生はお考えになられたのでしょう。先生のすばらしいご講演をお聞きしながら、あらためて先生のご決断は間違ってはいなかったのだ、ということを確信した次第でありました。しかしお辞めになることはなかったのに・・・
 ここで突然ですが、みなさまは「辞める」と「止める」をどのように区別されていますか。一般的には、前者は現在自分がおかれている状況や場所等を辞す(退く)という意味合いであるのに対して、後者は現在進行中の状況の停止を意味していると思います。もうすこし具体的に例を示しますと、委員をやめる、会社をやめる、教師をやめる、仕事をやめる、すなわち〇〇を辞する、辞任する、辞職するというのが「辞める」であり、書くのをやめる、勉強をやめる、販売をやめる、練習をやめる、すなわち〇〇を中止するというのが「止める」ということになりましょう。それでは、次のような場合は「辞める」か「止める」、どちらが適切でしょうか。「自分の好きな合唱をやめたくはなかったが、合唱団に入り、1年も立たずにやめた」。合唱団に入り、1年も立たずに(行くのを)やめたのなら「止めた」ですが、合唱団に入り、1年も立たずに(団を)やめたのなら「辞めた」となります。それでは、音楽活動を「辞める」はどうでしょうか。たとえ音楽活動が職業であるとしても、「活動」は「中止する」ものですから「辞める」は合いません。合唱団を「辞める」なら、たとえば、だれかがその合唱団から他へ移るのを想像しますが、合唱団を「止める」となりますと、合唱団そのものが解散するのかと想像してしまいます。さすれば、特別な地位にある人が、合唱団活動を辞めるのならともかく、活動そのものを止める意図があったとしたなら、それこそ大騒ぎです。さて、泰平先生はどうだったのかな・・・
 「辞める」にしても「止める」にしても相当のエネルギーが必要です。いまある状態を断ち切るわけですから、相当の決断が求められます。どちらの場合もじぶんだけではなく、まわりの人々にもかなりの影響を及ぼすことになりますので、熟慮断行する必要が生じます。さらに重要な鍵は、この決断が内発的な要因から生まれたものなのか、外発的なものからなのか、ということです。内発的なものならば、たとえその決断が失敗に終わっても、反省こそすれ、後悔はしてはいけませんが、外発的要因によって、しかも何の前触れも準備もなく、突然にいまある状態を断ち切られたならば、それこそ悔やんでも悔やみ切れないのではないでしょうか。一昨年の東日本大震災による大津波によって、突然にいのちを断たれた多くの犠牲者のみなさまの、その無念さ加減は推し量りようもなく、ましてや「止める」という自由意志ではなく、「止めさせられた」のですから、何をかいわんや、です・・・
 昨年の3月11日に、わたしたちは亡くなられた方々への哀悼の意を込めて、たくさんの志を同じくする仲間たちとモーツァルトのレクイエムを捧げました。主催は東北文化学園大学でしたが、毎年の継続を目途として始められたはずだったのですが、ある事情によって文化学園大学が手を引かれることになり、しかしながらこの企画の仕掛人である髙坂知節東北大学医学部名誉教授を中心に、いわゆる「三バン1」もないわたしたちですが、ボランティアで継続することを決議したのでした。すなわち、高坂先生を実行委員長に東北大学交響楽団の有志と、わたしが関係する宗音をはじめとした仙台、盛岡の合唱団2の有志らとで、これから毎年3月11日の午後2時46分の地震発生時刻に黙祷を捧げたのちに、「3・11祈りのコンサート」を行うこととしたのです。その趣意書に高坂先生は以下のことを掲げられています。
 「あの日の午後は、何の前触れも無く突然にやってきました。想像を絶する大地震とその後に襲った大津波により18,716人が犠牲となり、その内の2,846人は未だに行方不明あるいは身元が確認されていません(平成25年9月現在)。あの日は、雪の舞う寒い日でしたが、冷たい海水の中でこれだけ大勢の人々が苦しみながら亡くなりました。このことを私共は決して忘れてはならないと思います。そして、余りにも大勢の人々がほぼ同時刻に亡くなったために、十分な弔いの営みさえ果たせず、残された私共にとっても無念の思いが強く残っております」と。
 ほんとうに、ほんとうに何と無念なことでありましょうか・・・
 振り返ってみれば、おととしの地震発生時、わたしはまさにドイツから帰国したばかり、成田から東京駅に出て新幹線に乗り、仙台駅を発車して間もなくの車中におりました。三本木付近の連続するトンネルのなかで、6号車の一番うしろの席に座っていたわたしには、車両がダッチロールのようにうねり弾んでいるのがよくわかりました。それはもう、生きた心地などするはずもなく、よくぞ脱線してトンネル壁にぶつからなかったものだと、心底神さまに感謝したものです。一瞬、ほんとうに死ぬんだなと思ったものでしたが、即座にまだ死ぬ訳にはいかないぞと強く願い、神さまに祈ったのです。その祈りが通じて、いまこうして神さまにより生かされています。そういえば、ドイツを引き上げるときもそうでした・・・
 ほんじつは、日本人初のドイツ宮廷歌手の称号を獲得された名バリトン歌手の小森輝彦さんに出演していただいております。12年間ドイツのゲラ歌劇場の第1バリトン歌手として活躍された小森さんは、「看板歌手」としての業績が評価されて、2011年4月、そう、あの震災の翌月に日本人初のドイツ宮廷歌手(Kammersänger)の称号を授与されたのでした。この宮廷歌手という称号は、その歌手の芸術家としての業績とパーソナリティーによって劇場のレベルアップに寄与したことに対して与えられるものであり、単に長い期間その劇場の公演に参加したことで得られるものではありません。それほど価値のある称号の授賞式で、小森さんは感謝とともに以下のようなことを話されています(小森さんの公式サイトから転載)。
 (前略)いつの間にかアルテンブルクとゲラは私たちにとって第二の故郷になったのです。 私のもう一つの故郷・・・皆さん日本に起こったことはきっとご存じだと思います。この厳しい時期に私は、私の、芸術の使者としての義務を強く認識しました。このような大変なときだからこそ我々は音楽を、芸術を実践しなくてはいけない。被災者の皆さんは、肉体的にだけでなく、魂的にも精神的にも救われるべきなのです。私は今チャリティーコンサートを含む活動を始めたところです。皆さんがこの活動に参加して下さる事は、私の望外の幸せです。 その意味から、私は歌い続けたいと思います。(後略)
 また昨年11月、17年に及ぶドイツでの歌手生活にピリオドを打ち、帰国されるにあたって、その心境を吐露されてもいます。
 (前略)しかし僕は初めから、ドイツで歌手人生を全うするのではなく、いつかは日本を中心に活動したいと思っていました。つまり僕にとってのドイツ生活は修行の場であり、ドイツのマイスター制度で言うと「徒弟時代」にあたると考えておりました。そして何年か前からはっきりと単なる学びの時期を締めくくって次のステップに進むべき時が来た事を感じており、どういう形でそれを行うべきか模索を続けてまいりました。   一つは、年齢と共に自分が担う責任の重さが変化してきたことがあります。以前は表現者としてひたすら自分の仕事にのみ集中していれば良かったのですが、今はそれだけでは足りないと感じるようになったのです。今ではゲラの劇場のソリスト陣の中で最年長、契約年数も最長となりました。演奏の質という点ではもちろんですが、稽古を含む劇場生活の中で、演奏の質以外の部分でも相応の質の高さ、責任を果たすことを義務づけられたように思います。「学び」を自分の中心と考える時期にはピリオドを打たなくてはいけない、と言う思いです。また、劇場の専属契約によってゲラ市を頻繁に離れることが難しく、せっかく頂いた他の劇場や日本からのオファーの多くを断らざるを得ない状況がありました。その中には本当に素晴らしい質の高いプロダクションが多くあり、今後こういう芸術的水準の高いプロダクションを諦めないで済む状況に身を置きたいと切実に思わされました。そして家族のこと、その他のもろもろの事情を考慮し、熟慮を重ねて今年の秋に日本に帰国することを決断いたしました。宮廷歌手の称号を頂いたのはもう帰国の決断をした後でしたが、僕にとっては「修業時代」の終わりを象徴的に感じさせてくれる出来事でした。(後略)
 わたしは、この小森さんのブログを読み、個人的にとても共感いたしました。わたしの場合は、たった2年ちょっとの滞独でしたので、小森さんとは比べようもありませんが、ふるさとの岩手大学から声が掛かったことで、キャリアを積む場をふたたび日本に求めなさいと神さまが示してくださったのだと思いました。ほんとうはドイツでの音楽生活はまだまだ緒についたばかり、オペラもストラビンスキーの『エディプス王』のタイトルロールを担うことが決まっておりましたし、得意の宗教音楽では引く手数多の状況ではありました。しかし、そうしたことにきりをつけて新しい世界にまた一歩を踏み出すことは、とても勇気がいることではありましたが、人間の成長には欠かせないものだとも思いました。そうなのです、「止める」ということは新たな船出につながらなければならないのです。それだのに、津波でいのちを断たれた人たちは・・・
 ほんじつわたしたちは、ブラームスのドイツ・レクイエムを精一杯うたいます。と同時に、シュッツとバッハの作品も、前座的に取り上げます。それには、クリスチャンであるわたしのあるこだわり、思いがあるからです。宗音は、よくいろいろな方々から、宗教音楽合唱団という名が指し示すように、何かしらどこかの宗教団体の合唱団なのではありませんかと誤解されます。以前には、練習会場をお借りするとき、うちは宗教絡みにはお貸ししませんと言われたり、定演のポスターを軒先に貼らせてくださいとの申し出に、やはり宗教さんにはね、とやんわり断られることもありました。しかし、実際には宗音の活動は宗教にはいっさい関係がなく、宗教音楽の名作をうたって楽しむことを目的にしていますから、本質的には宗教活動とは無縁なのですが、ときにはわたしの個人的な思いによる選曲をゆるしていただくこともあります(もっとも、そうしたことすら詳らかにして曲決めをしているわけではありませんが)。そのわたしの今回の思いとは・・・
 みなさまご存知のように、ブラームスのドイツ・レクイエムはラテン語の典礼文を用いず、作曲者によって任意に選ばれたマルティン・ルター訳ドイツ語聖書の言葉をテキストとしています。そこにルターのプロテスタンティズムが生きているといえるでしょう。それはシュッツやバッハなどのなかに受け継がれた、ドイツの民衆とともにあろうとする精神を象徴しています。ブラームスはまた、ライプツィヒでの全曲初演指揮者ライネッケにあてた手紙の中で、「私はまったく喜んで”ドイツの”という言葉の代わりに、”人類の”(Menschen)という言葉に置き換えたいと公言してもいいのです」 とも言っています。かれの目途のなかでは、ドイツ的でありながら、普遍的でもあるということが包含されていたのでしょう。 この曲は、ライブツィヒ初演に先立つこと約1年前に、ブラームス自身の指揮によってブレーメンで演奏されていますが、このときはまだ第5曲目が抜けていました。大聖堂の音楽監督ラインターラーは、ブラームスに宛てて「来年の受難日4月10日が空いています。 しかし、あなたのレクイエムが受難日にもっとふさわしくなるように、まだ拡大する可能性があるのではないかと思われます」と書いています。なぜなら、ドイツ・レクイエムの歌詞には、キリストの十字架、受難、復活に触れている場所がないからです。さらに救済の意味やキリスト者の希望についても触れられていないため、教会で宗教曲として上演する場合、教義的に問題ありと考えられたのではないでしょうか。それに対してブラームスは、返信のなかで「意図的にヨハネによる福音書第3章16節および18節は避けた」と言っているのです。そうです、ヨハネによる福音書第3章16節は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、18節は「御子を信ずる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」という、ほんじつ演奏しますシュッツとバッハの合唱曲の歌詞なのです。さればです・・・
 もうおわかりですね。わたしのなかでは、ヨハネによる福音書第3章16節というのは、福音の核心であり、ここから18節まではキリスト者としてはぜったいに外せない聖句なのです。それでも、です。あえて何度も申し上げますが、これはわたし個人の思いや願いであって、けっして宗教色を押し付けたり前面に押し出したりという意図はありません。もっと大局的に、宇宙的に、突然平安を奪われた多くの犠牲者の魂の安寧を、わたしたちのおよびもつかない大きな存在に祈りうたいたいと思います。いのちを奪われかれらにおいては、この世では「新たな」世界はないのです。突然思いを断たれ、人生を「止めさせられた」方々のために、ひざをついて神さまに祈りたい。いまわたしたちができること、それは小森さんも仰っておられるように、音楽でもって気持ちを伝えることではないでしょうか。それに加えて、願わくは残された人々へわたしたちの奏でるうたで音楽で、励まし、慰めをもたらすことができたならと思います。そして、これはぜったいに止めてはいけません。わたしたちがどこを辞めようとも、この行為は止めてはならないのです。そうした祈りで会場が満たされることを切に願います。さあ、ごいっしょに・・・
(仙台宗教音楽合唱団 常任指揮者)