日本R.シュトラウス協会2014年度の年誌に掲載されたエッセイです。日本R.シュトラウス協会のご厚意により、転載をお許しいただきました。
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“辞めるということ、止めるということ、について”
この文章は、日本を代表するバッハ歌いとして知られるテノール歌手であり、また合唱指導者として宗教曲の分野で驚異的な業績を上げられている、佐々木正利さんが執筆されたものです。
僕が2014年1月13日に出演させていただいた、仙台宗教音楽合唱団の定期演奏会のプログラム冊子に佐々木正利さんが寄稿されたものですが、僕はとても強い感銘を受けました。僕の事にも言及して下さっているのですが、だからではなく、佐々木さんのキリスト教徒の関わりあい、音楽との関わり合い、社会との関わり合い方に触れ、この佐々木さんの思いを、より多くの方にご紹介したいと思いました。
それで、佐々木さんに特別にお願いし、ホームページへの転載をお許しいただいたものです。佐々木さん、ありがとうございました。
オペラ「遠い帆」のこと
これはニュースレター44号として発行したものですが、今回は例外的にエッセイとして掲載させていただきます。
寒くなってきましたね。僕は今仙台に来ていますが、リアの公演後、慌ただしく稽古、移動を経て仙台までなだれ込んだという感じで、ご無沙汰してしまいました。
オペラ「遠い帆」の公演まで1週間を切りました。ここ仙台では連日、熱い稽古が行われています。
ご当地オペラといって良いのでしょうか。ここ仙台で支倉常長を知らない人はいないようです。
そして支倉の仕えた伊達政宗は、今も仙台の人々の心のルーツと言っても良いほどの存在感があります。東京公演の記者会見で仙台市長の奥山恵美子さんとご一緒させていただき、控え室で色々と興味深いお話を伺ったのですが、宮城の近隣の件ではかつての領主の名前がパッと出てくる人は珍しいのに対して、宮城の方で伊達政宗を知らない人はいないと。
これは、伊達政宗が、如何にここ仙台の文化、人々を真剣に守ろうとしたかと言う事と深い関係があるようです。稽古でもたびたび話題に上るのですが、伊達政宗が、幕府の圧力に屈せずに仙台藩を守るために犠牲になったのがある意味で支倉常長なのですね。
支倉は今からちょうど400年前に遣欧使節として月の浦から出航し、当時のノビスパニア(メキシコ)へ赴き、さらにスペイン、ローマへと旅して、日本人と初めてローマ法王に謁見した人物です。本人が残した記録が失われてしまったこともあり、謎も多いのですが、長旅を終えて日本に戻ってくると日本全土にキリシタン禁令が敷かれて、状況は出立前と一変していました。
支倉はこの遣欧使節の役目を成功裏に終えるために、主君である伊達政宗に報いるためにローマの地で洗礼を受け、キリシタンとなりますが、帰国後にそれを逆に咎められました。その咎で命を落とすことになったという節もあります。キリシタン禁令をもって仙台藩取りつぶしを狙った家康に対抗するには、支倉を捨てて禁令に従う必要があったのです。
さきほど、「熱い稽古」と書きましたが、特に「熱い」のはまず、合唱の皆さんです。すごい熱気です。オペラの中で伊達政宗が「捨て石同然の六右衛門(支倉のこと)、禁令には当面従う振り」と歌う箇所がありますが、この「捨て石」という言葉に込められた伊達政宗の痛みを知っている皆さんが歌っているのですから当然ですね。伊達の痛み、支倉の無念を、自分の土地のこととして知っている皆さんとこうして共演できること、本当に希有な機会と心得て、僕も自分の責任を果たさなければ、と思っています。
もう一人、熱いのは演出の岩田達宗さんです。僕は岩田さんとは留学以前からずいぶんつるんで(?)いて、今回は13年ぶりの共演なので、本当に楽しみにしていました。そして13年経っても全く変わらない岩田さんのオペラへの姿勢、愛情、熱意を感じて、立ち稽古初日から僕自身もすごく熱くなっています。
岩田さんとのことは、書きたいことがたくさんあるのですが、長くなるので別の機会に・・・。
岩田さんのコンセプト、ネタバレはまずいと思うので具体的には書けませんが、一つ解釈のポイントというか、僕が注目しているポイントをご紹介します。
三善先生のスコアには19の場、一つ一つにつけられている名前があります。そのうち最初のシーンは「死失帖」とあります。「しにうしないちょう」と読むそうですが、これは罪を犯した人間のリストで、ここに名がある人間は、その子孫代々、罪を犯した人間の子孫として扱われると言う事です。
このオペラ「遠い帆」は児童合唱の数え歌から始まりますが、そこにこの「死失帖」というタイトルがついている。つまりこの子供達は、支倉と、おそらくは一緒にサン・ファン・バウチスタ号でメキシコに向かった伊達の家臣達の子孫なのでしょう。藩のために苦難の旅を終えて、その使命を遂げるために本意でなく(これは推測ですが)キリシタンとなったのにそれを咎められた支倉、そしてその結果、代々罪に問われ続ける子供達。
そんな理不尽なことがあって良いのか?と言いたくなるのですが、それが一体どういう意味を持つのか、今回の演出は答えを提示していると思います。
仙台は東京から、遠いようで近かったです。新幹線なら2時間かかりません。直前になってからのお誘いで申し訳ありませんが、このニュースレターをお読みになって興味をお持ちになった方、今からでも遅くありません!是非是非お越し下さい。ニュースレター会員の方には一割引でチケットを提供できますので、ご希望の方はこのメールに返信の形でご連絡下さい。
それではこれから舞台稽古に行って参ります。
小森輝彦
門下生勉強会のプログラム挨拶文
8月28日(水)に行われた、小森の門下生勉強会の配布プログラムに掲載した挨拶文です。
本来は来場者のために書いた文章なので、こういうところに転載する必要はないのですが、教えると言うことに対してそれなりに思い入れを持って書かれた文章なので、広く読んでいただけたらと思い、転載することにしました。
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劇場便り2012
日本R.シュトラウス協会本年度の年誌に掲載するエッセイです。日本R.シュトラウス協会のご厚意により、転載をお許しいただきました。
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インバル氏とのマーラー、終わりました
横浜みなとみらいと東京文化会館での、東京都響マーラー・ツィクルス第一回、エリアフ・インバル氏との演奏会が無事に終わりました。足を運んで下さった皆さん、ありがとうございました。
マーラー・スペシャリストとして知られるエリアフ・インバル氏との共演はたまらなくエキサイティングでした。インバル氏は結構稽古や本番の度にちょっとしたところを変えて音楽を進めていきます。ライブ感がとてもある演奏会になったと思います。休憩後の交響曲一番は二回とも客席で聞かせて頂いたのですが、本当に素晴らしい演奏で、涙が出ました。この1楽章、2楽章は「ドイツの森」そのものですね。そこに民族音楽の響きが加わって終楽章では一気にカタルシスを迎える。本当にすごい音楽だし、指揮のインバル氏の素晴らしさに加えて、東京都響の皆さんの渾身の演奏、最高でした。技術の高さだけではなくて、音楽性、情熱、連帯感、芸術への帰依を強く感じました。東京都響の皆さん、素晴らしい演奏を本当にありがとうございました。
同じオーケストラで同じ曲目を歌う、というのは特別な感慨があるものですね。僕はこの同じプログラム(さすらう若人の歌、交響曲第一番)の東京都交響楽団との演奏会に12年前にも出演させて頂いています。しかも今回と同様、マーラー・ツィクルス第一回としての演奏会でした。指揮は当時都響の音楽監督だったガリー・ベルティーニ氏でした。ベルリンの留学時代にベルティーニ氏のオーディションを受けるためにハンブルクまで列車に揺られて行った覚えがあります。
今日の演奏会のあと、楽屋口でサインを求められた方の中に何人も、その12年前のコンサートも聴いて下さった方がいらして、なかにはその時の僕がしたサインを持参されてその同じページに今日のサインを、と言って下さった方もいました。何だか感激しました。
というのも、その12年前の演奏会が僕にとってある意味特別だったからです。みなとみらいでの12年前の演奏会の日の朝に、長男の健登が生まれました。僕は朝に出産に立ち会ってすぐに横浜に向かって歌ったのです。
この12年間・・・正確には12年と5か月・・・に本当に色々な事がありました。僕は12年前のマーラーの演奏会の3か月後にゲラの劇場での活動に入り、そして今回の演奏会の2か月前に劇場の契約を打ち切ったわけです。そして当然のことながら息子は12歳になり、再来月には僕らは17年のドイツ生活を切り上げて日本に帰国します。
僕はこの17年のドイツ生活をGesellenzeit(修業時代)に喩えることが良くあるのですが、このさすらう若人の歌は原題が「Lieder eines fahrenden Gesellen」で、Gesellenというのは若者という意味だけでなく、あちこちで修行して回る徒弟のことも指します。
これからは日本を拠点にして、更に精進して参りたいと思います。11月から年内の演奏会は、山形、大阪、名古屋と首都圏以外のものが続くのですが、東京では2005年から続けている「小森輝彦・服部容子デュオ・リサイタル」が12月20日にあります。
8回目となる今回はシューベルトの歌曲「美しき水車小屋の娘」を取り上げます。これも今回のマーラー同様「Geselle」(徒弟)がテーマです。マイスター(親方)になるべく修行の旅をしている若者がある水車小屋で娘に恋をし、失恋して自殺するまでの物語です。この二つの「徒弟物語」をドイツ生活を切り上げるこの年に歌えるというのは、僕にとって特別な意味があります。
東京文化会館小ホールで19時開演です。まだ詳しい情報をこのホームページにも掲載できていませんが、追ってお知らせいたします。e+(eプラス)では9月27日からチケットを発売開始します。主催のセンターヴィレッジ(03-5367-8345)では9月25日からチケットのご予約が可能です。
素敵なドイツ語の響きを豊穣なオーケストラの響きに乗せて客席に届ける、と言う事が今日の演奏会ほど楽しかったことはありませんでした。じっと集中して聴いて下さっている客席の皆さんの眼差しにもとても励まされました。これからも、こういう充実した演奏会をどんどん歌っていきたいです。
日本への帰国のお知らせ
いつも僕のホームページを見て下さっているみなさまへの大切なご報告をしたいと思います。
今までゲラの劇場で12年間の長きにわたって歌ってきました。ベルリンでの留学時代をあわせるとドイツでの生活は17年になります。そして今、このシーズンを最後にしてゲラの劇場での仕事を終え、故郷の日本へ帰国することにいたしました。シーズンの終わりにあたり、この公式サイトをご覧のみなさまにご報告させて頂きます。
僕にとって、ドイツの劇場の専属歌手になることは、高校の時に声楽を始めて以来の夢でした。岡村喬生さんの「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」という著作を読んで以来、ドイツ独自のレパートリーシステムの中に身を置き、同じ小屋で、同じ同僚とチームを組み、「おらが街の歌手」を誇りに思う聴衆の皆さんの前で歌い続けること、あたかも劇場に「住んで」いるような感覚で仕事をすることに憧れ、それを目指して学んできました。
ですから、この12年間は本当に僕にとって幸せな、豊かな年月でした。困難がなかったわけではありませんが、それらの困難を経験として与えられたことも含めて、本当に恵まれた12年だったと思っています。この場所に自分を運んでくれた家族、友人や同僚、聴衆の皆さんに心から感謝しています。そして折々で流れを変えたり速めたりした様々な「偶然」の力にも。
しかし僕は初めから、ドイツで歌手人生を全うするのではなく、いつかは日本を中心に活動したいと思っていました。つまり僕にとってのドイツ生活は修行の場であり、ドイツのマイスター制度で言うと「徒弟時代」にあたると考えておりました。そして何年か前からはっきりと単なる学びの時期を締めくくって次のステップに進むべき時が来た事を感じており、どういう形でそれを行うべきか模索を続けてまいりました。
一つは、年齢と共に自分が担う責任の重さが変化してきたことがあります。以前は表現者としてひたすら自分の仕事にのみ集中していれば良かったのですが、今はそれだけでは足りないと感じるようになったのです。今ではゲラの劇場のソリスト陣の中で最年長、契約年数も最長となりました。演奏の質という点ではもちろんですが、稽古を含む劇場生活の中で、演奏の質以外の部分でも相応の質の高さ、責任を果たすことを義務づけられたように思います。「学び」を自分の中心と考える時期にはピリオドを打たなくてはいけない、と言う思いです。
また、劇場の専属契約によってゲラ市を頻繁に離れることが難しく、せっかく頂いた他の劇場や日本からのオファーの多くを断らざるを得ない状況がありました。その中には本当に素晴らしい質の高いプロダクションが多くあり、今後こういう芸術的水準の高いプロダクションを諦めないで済む状況に身を置きたいと切実に思わされました。そして家族のこと、その他のもろもろの事情を考慮し、熟慮を重ねて今年の秋に日本に帰国することを決断いたしました。宮廷歌手の称号を頂いたのはもう帰国の決断をした後でしたが、僕にとっては「修業時代」の終わりを象徴的に感じさせてくれる出来事でした。
我が劇場の当時のインテンダント(総裁)オルダーグ氏に、契約を打ち切って日本に帰ることを伝えたときは、ありがたいことに強く慰留されました。しかし、僕の気持ちや、これが長年考えていた事なのだと言うことを説明して理解してもらいました。
春には劇場後援会と劇場がお別れコンサートを企画してくれました。日本でのデュオ・リサイタルでいつもペアを組んでいるピアニストの服部容子さんがこのお別れコンサートでの演奏を快く引き受けてくれ、このコンサートのためにドイツまで飛んできてくれました。ゲラ市立歌劇場での二回のコンサートの他、ヴァイマールのシュタイナー・ハウスでもお別れコンサートを行い、音楽を通じてお別れのメッセージを伝えました。シューベルトの「美しき水車小屋の娘」による歌曲の夕べと、今まで歌ってきた役のアリアを中心としたアリアの夕べを行いましたが、最後のアリアの夕べでは満場の観客によるスタンディング・オベーションとなり、ゲラの劇場の聴衆の愛情を強く感じました。
同じ顔ぶれ、同じプログラムのシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を2012年12月のデュオ・リサイタルで取り上げることもあり、デュオ・リサイタルVol.8はこのお別れコンサートとリンクして提携公演とすることとなり、お別れコンサートのプログラム冊子にも取り上げられています。このプログラム冊子は後援会がこの12年間の僕の活動を総括してくれたもので、またこのサイトでもご紹介したいと思っています。シーズン最後の「テアターオスカー」授与式では、思いがけず五度目の劇場オスカーとなる「Ehren-Oscar(名誉オスカー)」を受賞し、最後のシーズンを締めくくることが出来ました。
日本に戻ってからは、ありがたいことに多くのやりがいのあるプロダクションが待ってくれています。2013年には1月に新国立劇場の「タンホイザー」ビーテロルフ役、5月に東京二期会の「マクベス」タイトルロール、12月には宮城県民会館でのオペラ「遠い帆」で主人公の支倉常長があります。主催者の都合でまだ詳細を発表できませんが、その他にもいくつか、バリトン冥利に尽きる役を歌わせていただく予定です。
これからは日本での活動がほとんどとなり、皆さんと舞台でお会い出来る機会は飛躍的に増えると思います。
以前、「テューリンゲンの森から」というこのホームページのタイトルは、日本に帰国した際には変更せざるを得ないだろうと思っていました。しかし今は、その考えをあらためました。テューリンゲンは僕の第二の故郷であり、この12年間を通じてテューリンゲンの劇場文化は僕の一部となりました。このホームページのタイトルは、このまま大切に使わせてもらおうと思っています。
長い間のドイツ生活の中、皆さんの応援にどんなに励まされたかわかりません。心から皆さんの声援にお礼を申し上げると同時に、今後の日本での活動を暖かくお見守り下さるよう、お願い申し上げます。
小森輝彦
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「帰国についての新聞記事(2011年10月)」
劇場便り2011
日本R.シュトラウス協会本年度の年誌に掲載するエッセイです。日本R.シュトラウス協会のご厚意により、転載をお許しいただきました。
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ドイツ宮廷歌手の称号を授与されました
去る4月2日に、ドイツ宮廷歌手(Kammersänger)の称号を授与されました。
チャリティーコンサート終了のご報告
2011年4月25日にゲラ市立歌劇場のコンサートホールで行われた、東日本大震災チャリティーコンサートは大成功に終わりました。
100人程度の来場を予想して、コンサートホールフォワイエでの開催を予定していたのですが、早々に200枚のチケットが前売りで売れてしまい、急遽場所を800人収容のコンサートホールに変更しました。
コンサート当日は、400人以上のお客様がつめかけて下さり、当日券売り場には長蛇の列が出来ていたとのことです。
東テューリンゲン新聞の予告記事などの助けもあり、予想を遙かに上回る多くの方が来て下さいました。善意を行動で表して下さった皆さんに、心から感謝したいと思います。