歌手の現場から / Aus Alltag des Sängers

日本R.シュトラウス協会2014年度の年誌に掲載されたエッセイです。日本R.シュトラウス協会のご厚意により、転載をお許しいただきました。
 
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東京の夏は暑いです。分かってはいましたが、やはりその中に「通りがかりの者」ではなく、腰を落ち着けている者として身を置いてみると、感じ方は違うものですね。
東京に居を移して、2年弱が経ち、かなりの部分で日本、東京のペースに慣れては来ました。でもまだ「外様」の気分です。もともとは東京出身なんですけどね・・・。済んでいた頃も、実はあまり「東京っ子」という認識がなかったかも知れないです。だから、ドイツにいた事はあまり関係ないのかも知れない。
でも、この「外様」的気分について自分で面白いな、と思うのは、東京という街、日本という国を、若干でも第三者的に観察できることですね。僕はメンタリティーとしてはがっつり日本人なので、生活の様子という要素を通して自分の国、自分の属するメンタリティーを若干でも客観視出来るこの機会を得ている事は、希有でもあり、非常にありがたい事でもあります。
この「メンタリティ比較論」みたいな事は、以前に我が日本R.シュトラウス協会年誌のエッセイの中でも、何度か触れてきた事です。直接的に言及しなくても、いつも僕の想いの底流としてそれはありました。日本人であり、東洋人である自分が何故、西洋の音楽を生業としているのか?その理想的なありようは如何にあるべきか?
このメンタリティ考察について、当初は、もっと早く自分が「飽きる」のではないかと考えていました。その時の自分にとって、メンタリティ比較がいわば流行であって、そのうち自分の興味も失せるであろうと想像していました。
しかし、そうはなりませんでした。興味は失せるどころか増していき、深まっていって、幾つかの段階を経て、違うレヴェルの考察に発展しつつあります。きっと僕のライフワークの一つになるんだろうな、と今はぼんやり思っています。
東京に居を移して変化したことの一つは、教育者としての活動の比重が著しく増えたことです。ドイツにいるときもレッスンはしていましたが、ドイツでの生徒の数は限られたものでしたし、一時帰国の度にレッスンをしていたとは言え、大半の時間はドイツで過ごしていましたので、1年を通して生徒と向き合うと言う事はありませんでした。
ドイツに住んでいた頃は、一時帰国の期間中に集中してレッスンをし、その生徒が自分の今の課題を解決するための「宿題」を出す、という感じの進め方でした。それが今は定期的にレッスンをする事になってレッスンでの作業や目標もかなり変わってきます。少し前に門下生の勉強会(発表会)を行ったので、その事もあり一つの区切りとして声楽教育について考える機会になりました。
今回の勉強会、二回目の開催になります。昨年も8月末に行いました。その時は大学の学生達は4か月程度の付き合いですし、急に企画を立てたこともあってプライベートの生徒の参加は6人に留まりました。大学の学生16人とプライベート6人、最後に僕も歌いましたが、舞台に立った歌い手は23人でした。
それが今年は、計画的に準備を進められたのでプライベートの生徒も早くから予定を組むことが出来、20人近くの参加がありました。そして大学の生徒も増えたので、結局歌ったのが42人とほぼ倍増して、一人の持ち時間が7分程度という制約をしても発表会自体が6時間を越えるという長丁場になりました。
こんなに長くなると、聞いているお客様も疲れるだろうし・・・発表会の類いの演奏会では、一部のお客さんは知り合いの分だけ聞いて帰る、という感じでお客さんの入れ替わりがかなりあるものなのですが、それでも・・・全員の分を集中して講評を書かねばならない僕も相当スタミナ勝負だな、と覚悟していました。
でも、結果から言うと、全然疲れませんでした。これは結構驚きでした。発表会全部の写真を撮影して下さったカメラマンの四位実さんも「時間が経つのが速かった」とおっしゃっていました。この四位実さんの事は機会を改めてまたご紹介しようと思うのですが、アートスポーツのカメラマンとしては日本のトップにいらっしゃる方で、体操、新体操、飛び込み、フィギアスケートなどの世界大会の公式カメラマンを多く務められています。音楽や舞台を専門に撮ってらっしゃるわけではありませんが、芸術点が付くスポーツが専門なので、見る目は非常にシビアで的を得ていて、僕も四位さんとお話ししていると意外なところに気付かされることが非常に多いのです。ある種の同情を持っている同業者とは違いますし、その四位さんがこう言って下さっていたのは、非常に信頼出来る意見だな、と思いました。
四位さんだけでなく、最初から最後までお聞きになったお客さんが思いの外多かったことから考えても、僕の感じたところは他の人も感じてらしたのかな、と思いました。
どうして時間が経つのが速かったか。去年と比べると、みんなはっきりと成長ぶりを見せてくれていたのですが、レベルが高いか低いかと言うことより、もっと別のところがポイントだったんじゃないか、と僕は思ってます。
それは、一人一人が自分の個性を出していたから、言い方を変えれば、でこぼこが大きくカラフルな発表会だったんじゃないかと思うのです。
僕は常々、生徒と向き合うときに、「この人の持っている美質はどこにあるだろうか」と考えるようにしています。僕の持っているメソッドや音楽的な傾向にある程度より沿ってもらう事は避けられませんが、それでもその人がその人らしく音楽家としての自分固有の美質、強みを発揮していって欲しいと思うのです。だから場合によっては他の生徒と全く逆の事をアドバイスすることにもなりますし、人によっての違いだけでなく、その時のその生徒の状態・・・精神的な状態や肉体的な状態、今までの経緯と目標との位置関係など・・・を鑑みて生徒と向き合うように努力しています。
レッスンがうまく行くと、その人の「本当の声」に近づくことがはっきりと感じられ、深く感動させられることもしばしばです。これは本当に声楽ならではの悦びではないかと思っているんですが、その人の人となり、人間性のようなものが声に現れる瞬間があるんですね。それが聞こえると、音楽作品とその人の人間性の交錯に感動するんだと思います。音楽と人間のコラボですね。
逆に言うと、いくら上手で音楽的でもあまり感動しないケースもありますね。聴き手としての僕にとっては、その人がどういう人なのかが声の中に明らかにならない時がそうです。だからやっぱり声楽家、ひいては音楽家、舞台表現者はオープンな方が良い、と僕は思います。その為には技術というのは必要以上に意識されない方が良いと思うのです。なかなかこれが難しいのですが。
歌う事は泳ぐことに似ている、と言う話を時々します。泳ぐことは習うことではなくて思い出すことなんじゃないか?という話です。もちろん泳げない人もいるわけですから一般化はしにくいですが、幼児の水泳教室の様子などをみていても、泳ぐという行為に本能的に入っていけると上達が早いようです。
どうして思い出すこと、と言うかというと、人間誰もがお母さんのお腹で泳いでいたからなんですね。泳ぐというのが強引なら、水に浮かんでいた、と言う事でしょうか。
声を出すことも然り。人間、お母さんのお腹から出てきてまずすることは大声を出して泣くことだと思います。これは歌ではないけれど、声を思いっきり出すことはかなり本能に近い行為ですね。
だから構えないで・・・技術的には構えは必要なんだけど、心までは構えないで、と言う事です・・・リラックスした心持ちで歌えたら、ストレートにその人の人柄が声に出てくるのです。
泳ぐこととの関連と似ていますが、僕が良くレッスンの場で話すこと。歌う、と言う行為がその人にとって服を着る行為に近いか服を脱ぐ行為に近いか、と言う質問です。
多くの人が着る方に近い、と答えてくれるのですが、僕は断然、脱ぐ方の心持ちで歌う方が良いと思っています。
ハンス・ホッター先生が歌舞伎をご覧になって、「芸術性の高さはよく分かるのだが、あの声を聞いているのが辛い」と言ってらしたのを思い出しますが、東洋での集中が緊張に向かうのに対して、西洋の集中が解放に向かう、という傾向があります。これを服の着脱ぎに置き換えると非常にわかりやすいのです。
僕は技術の指導においては、かなり科学的というか解剖学的な視野を取り入れていて、言ってみれば理屈っぽい教え方をする方だと思います。精神的なアプローチというのは大事だとは思いながらも危険も感じていて、安易に精神論を振りかざすようなことは避けようと思っています。精神的な事を言い出すと、アドバイスが抽象的になりやすいし、一般的な印象を喋るようなことにも陥りやすく、具体的な対策に至らないケースが多いと思うのです。
それでもメンタルな部分に触れないとどうにも前に進めないケースがかなり多いことから、最近は精神面でのアプローチをするのを躊躇しないようになってきました。
北風と太陽のお話をご存じだと思います。北風と太陽が旅人のコートを脱がせる競争をするのですが、強い風でコートを吹き飛ばそうとする北風に対して、温かい光を送る太陽が勝利しますね。風が強ければ強いほど、旅人はコートをしっかりと押さえてしまうのですが、太陽の温かい光を浴びると自分からコートを脱ぎます。
このイソップ寓話での旅人の立場は、演奏の場面に置き換えると演奏者よりむしろ聴き手の方という事になるかと思いますが、その場合でも僕は、演奏をお聴きになっているお客様が服を着る感覚よりは脱ぐ感覚になる方が、コミュニケーションとしての演奏は上質になると思います。そしてもちろん、このどちらかになるかは演奏者の演奏ぶりにかかっているわけです。
別の言い方をすると、お聞きになったお客様の肩こりが増すよりはとれていった方が良い。すごい声や技術で唸らせる演奏をしても、聴いたあとに何故か疲れが残る演奏、と言うのがあります。それに対し、びっくりするような大音響、高音などを聴かせる訳ではなくとも聴いたあとに体が楽になっているような演奏があります。僕は、この二つのうちでは後者を支持するし、後者の演奏を目指しています。
お客様をすごい技術や音量で圧倒しようとする演奏は、いわば声を「武器」として使っている部分があるわけで、お客様はその場合、敵ですね。これは服を着ることを越えて武装してしまっているわけです。敵をコテンパンにして共感を得ようというのも考えようによってはおかしな事かも知れません。
今はセクハラに始まった各種ハランスメントとその対策が大学でも話題になることが多いのですが、レッスンで「服を脱いでご覧」なんて言うと、それが比喩的なことだと受けとめられなかったときには立派なセクハラ、アカハラ、パワハラになります。ですから僕も言い方に注意しなくちゃいけないんですが、聴き手にも心の服を脱いでもらう様な演奏、自分も服を脱いで音を出すような演奏を目指そうと常々話題にしています。
言ってみれば、心の持ちようとしてはお客様と裸の付き合いをする、と言う事になるんでしょうね。
服を脱いで身軽になり、歌手が・・・これは歌い手だけのことではないと思いますが・・・本当の自分の声で歌うとき、演奏にはその人間性が見えてくる様に僕には感じられます。門下生の発表会では、まだまだ発展途上の歌手達ながら、方向性としてはそういう、自分をさらけ出す方向に進んでくれて、それぞれが勝手なことを勝手に歌ってくれている様子が見受けられ、大変頼もしく思った次第です。
6月には、去年に続いて、我が協会の歌曲例会の企画、演奏を担当しました。お運び下さった皆さん、ありがとうございました。
今年は皆さんもご存じの通り、我らがリヒャルト・シュトラウス生誕150周年の記念すべき年であり、我々の協会の創立30周年の年でもあります。秋に行われる協会の総会に併せて、豪華なコンサートも予定されています。
生誕150周年、協会創立30周年という記念の年に併せて、この歌曲全曲連続演奏会も完結しました。僕の恩師であり、この協会の創立メンバー、専務理事である原田茂生先生が始められたこのシリーズですが、僕が運営委員として協会に参加することになった昨年度から担当させていただいています。
最後に残っていたのは作品56。原調で演奏しようとすると、ハイソプラノ、中声歌手(メゾ・ソプラノかバリトン)、特に低音の出るバス、と三種類の声が必要になります。色々思案した末に、今回は僕自身が一人で歌う事に決めました。その為には移調楽譜を作る必要がありましたので、知人に作成を依頼しました。
作品56、蓋を開けてみると、色々なキャラクターの歌曲が盛り込まれていました。かわいらしい曲あり、エロスの極みのような曲もあり、のどかな曲もあり・・・。この作品56が、全曲演奏会の最後に残ったというのは、ちゃんと理由があるのだと思うのですが、当然、それほど頻繁に演奏される曲目ではありません。4曲目の「Mit deinen blauen Augen(君の青い目で)」はこの6曲の中では比較的頻繁に演奏されると思いますが、これを例外として他の5曲はあまり演奏されない。そしてどれも演奏が難しい・・・。
しかしながら、いわゆるスタンダードなナンバーとは言えないこの作品56の6曲、実際に紐解いてみると、素晴らしい作品ばかりでした。可愛らしい曲があると書きましたが、特に1曲目の「Gefunden(見つけた)」や最後の「Die heilgen drei Könige(東方の国から来た聖なる三博士)」などは、とても温かく、ユーモアあふれる曲で、大好きになってしまいました。「Im Späthboot(夕暮れの船なかで)」の雰囲気も非常に好ましいし、「Blindenklage(盲人のなげき)」の憧れのエネルギー、「Frühlingsfeier(春の祭り)」の狂気にも圧倒されそうになります。そして、「Mit deinen blauen Augen」は僕が服部容子さんとのデュオ・リサイタルでも2006年の第二回で取り上げた、大好きな曲です。ヘルマン・プライさんの圧倒的な熱唱を聴いて以来、小曲でありながら僕の心を揺さぶり続ける曲です。
リートというのは、オペラとは全く違うジャンルです。僕ら声楽家が頻繁に取り上げるジャンルは、オペラ、歌曲、宗教曲・・・という感じになると思いますが、それぞれが全く違うコンセプトのもとに作られているといって良いと思います。
もちろん、そこには明確に言語化されたルールがあるわけではありません。あとからそれを定義しようと試みて言語化されたものがあるとしても、それは後付けの定義であって、最初にあったわけではありません。作曲家達の渾身の試みの連なりの中で、それぞれのジャンルの持つイデオロギーのようなものが形成されてきたのだと思います。そして節目節目で、その共通認識を壊そうとした試みもあったかも知れません。はっきりと意志的に破壊を意図しなかった場合でも結果的に破壊的と言える創造の営みは、場合によってはあとから「改革」「進化」と呼ばれたりして、時には賞賛され、時には批判され、或いは歴史の中で評価の変遷を見てきました。
ゲーテの賞賛を受けることが出来なかったシューベルトの歌曲「魔王」の存在は、その一つだと思います。これほどの名曲、圧倒的な音楽の力を湛えた歌曲は希有だと思いますが、偉人ゲーテはこの、自らの詩に作曲されたシューベルトの作品を好まず、むしろライヒャルトの作品を好んだと伝えられています。そして、このライヒャルトの作品は今日、ほぼ演奏されることがないと言って良いでしょう。歴史というのはそういうものなんでしょうね。
ゲーテを敢えて「偉人」と言ったのは、彼ほど、物事の本質を見つめ、そこに法則性や「本来性」(こんな言葉があるかどうか分かりませんが)を探ることに長け、また実践において成果を上げた人は希有であろうと思うからです。そしてそのゲーテでさえも、歴史が評価したこの曲を評することが出来なかった。評価するに至らなかった。歴史、時間、主観と客観。僕にとってはとても興味深い事実です。
さて、話を一つ戻してジャンルのこと。リートにおいて声楽家が行うこととオペラ歌唱において行うことはかなり異なります。この二つのジャンルの歌い分けについて、たしかフィッシャー=ディースカウが「オペラにおいては役(人物)が成長するが、歌曲ではそれがない」と言っていました。なるほど、と思いました。
オペラでは一人の人物を演じ続けるのが殆どですが、その場合は、その人物になりきることが必要になってきます。生きる時代、国、言語、文化・・・色々なものが演じる自分とは違う役のキャラクターに「なりきる」、その人物を「生きる」事が必要になってくるので、その人物がどの様に考え、何を大切にしているかを知ること、想像することが非常に大事になってきます。
それに対し、歌曲でのアプローチにおいてはバランスがかなり変わってくるように思います。これは表現者一人一人が自分のベストのバランスを見つけていくべき事ですが、僕が今まで歌ってきて思うのは、オペラで大切な「なりきる」こと、あるいは「その人の状況を知ること」の重要性は若干後退し、むしろ表現者の自分がどう感じるか、どの様にその事実を受けとめるか、の方が大事になって来ます。
言ってみれば、オペラではオフィシャルな自分、歌曲ではプライベートな自分を出していくことが必要なのではないかと思うのです。勤務中の自分とアフターファイブの自分みたいな感じでしょうか。
もちろんオペラでも、演者の心の襞、繊細な生の感性というものを隠していくわけではありません。表現者の感情がそのまま音楽に乗っていくべき、と言う点は変わりません。
ですが、歌曲では他人になる必要がないのです。自分自身でいれば良い。いや、むしろ自分自身でいなくてはいけない。
自分が自分自身でいるときに、その自分が発する言葉とメロディーを魅力的にする時に大事なのは、言葉と声が如何に肉体化されているか、だと思います。「稽古というのは作品を肉体化することだ」というのは栗山昌良先生の言葉ですが、歌曲演奏でもオペラと同様、稽古によって言葉、作品、音楽が肉体化されていかねばならない。
そして、オペラよりも自分自身のプライベートな部分が大切になる歌曲演奏では、実際的な、ある種生活と密着した「生の」感覚、温度、現実性が、その演奏に関わりを持ってくるべきだと僕は思います。
具体的な例を挙げると、例えば今回演奏した作品56の1「Gefunden」。歌曲例会でもお配りした、田辺秀樹先生の対訳は以下の様になっています。
1.見つけた
ぼくは 森のなかを
気の向くままに 歩いていた
なにか 探そうなんて気は
少しもなしに
木陰に ちいさな花が
咲いているのが 見えた
星のような輝き
瞳のような美しさ
ぼくが 手折ろうとすると
その花は 小声で 言った
私は 手折られて
枯れてしまう さだめなの?
ぼくは その花を
根もとから 掘り取って
わが家の 庭に
持ち帰り
静かなところを 選んで
植えてやった
いまでは 盛んに 枝をのばして
花を 咲かせ続けている
僕はこの歌詞を読んですっかり気に入ってしまったんですが、この情景を想像するとはっきりと目の前に浮かぶ風景があります。
僕らがドイツのゲラ市にいたとき、家族ぐるみで親しくしていた友人がゲラ市の郊外に住んでいたのですが、彼らはさらに森の中に入っていったところに草原とバンガローを持っていました。そのバンガローは買い取ったあとに取り壊して一から自分で作り上げた、完全に手作りのバンガローです。僕と嫁さんと息子で、できるだけ足を運んで一緒に手伝いました。屋根を貼ったりペンキを塗ったり。本当に素晴らしい作業でした。
そして、そのバンガローが完成したあとは、仕事のない週末は殆ど毎週、そこへ行って悠悠と流れるドイツの時間を楽しんでいました。ドイツ生活最後数年のことだったので、日本に戻ったらこんな贅沢な時間の使い方は出来ないだろう、と言う想いもあって、心に刻もうとその時間を満喫しました。
そのバンガローには多く友人達が集いました。僕らも友人を連れて行きましたし、持ち主の友人の更に友達があつまって、誕生日パーティー、森の中の音楽会・・・忘れられない想い出が沢山あります。
そして、お別れパーティーもこの草原でやってくれましたが、その時に僕と嫁さん、息子にそれぞれ木を一本プレゼントしてくれました。僕らの名前がついたその三本の木は今でもそこに立っていて、綺麗な花を咲かせるようです。
僕はこの作品56の1の歌詞を見たとき、この木のことを思いました。バンガローの裏に植えてある僕の木、バンガロー入り口近くにある嫁さんの木と、花壇の近くに植えられた息子の木。バンガローに射してくる木漏れ日や、バンガローの森の匂い、夕暮れ時の木のざわめき。どれも僕の脳裏に焼き付いています。
それらの音や匂い、感覚が僕の中に蘇ってきたとき、この「見つけた」という歌曲を歌う僕は、本当の歌を歌っています。おそらく。
ゲーテが過去の遺物ではなくなり、R.シュトラウスも友人のように感じられます。なぜならこの二人が感じた森の中で咲く花のかわいらしさや、それを庭に植え替えたときの喜びを、僕も真実の感覚として共有出来たからです。
僕は、この曲を歌曲例会で歌った時、歌曲演奏とはこうあるべきなんだ、と静かに納得しました。少なくとも僕にとっては、これが歌曲演奏の真実だな、と腑に落ちました。
僕らの住んだゲラ市の北にあるバート・ケストリッツというところは作曲家のハインリッヒ・シュッツの生まれ故郷で、ここの黒ビールはドイツ全土で飲まれる人気ビールの一つです。僕もこの黒ビールが大好きなのですが、このビールは文豪ゲーテも好んで飲んでいたそうです。「ゲーテも愛したビール」というのがキャッチフレーズになっています。
このビールを、思いがけず日本でも手に入れることが出来るようになり、今では機会があると友人にも勧めているのですが、日本で飲むと少し味が違うように感じるのですね。特に猛烈な暑さの中では、ドイツで飲んだときのように美味しく感じられないのです。残念ながら。
少し涼しくなってきた最近では、またこのビールを飲みたくなってきました。味覚というのは正直なもので、このビールを飲むと僕の感覚は一気に10000kmの距離を飛び越えて、ドイツへ戻っていきます。東京の喧噪の中で、ふっと一息つける時間を、このケストリッツのビールが作ってくれることもしばしばです。
ドイツの味、ドイツの森のざわめきや匂い、こういったものを懐かしみつつ、忘れないように心に刻み続ける事が、とても大切なことに思えています。東京での歌い手としての活動、とりわけこういうプライベートな感覚を大切にするという意味では歌曲歌いとしての活動に、それらの感覚を活かして生きつつ、更に思索の森の散策を続けていきたいと考えています。