帰国についての新聞記事(2011年10月)

掲載された新聞へのリンク(ネット上にあるもののみ)
アルテンブルク・ネット紙
ノイエス・ゲラ紙
劇場のサイト
オストレンダー・フォルクスツァイトゥング紙
東テューリンゲン新聞
宮廷歌手小森輝彦氏にとっての、東テューリンゲンでの最後のシーズン
かのヘルデンバリトンは、2012年の秋に日本へ戻る事となった
アルテンブルクとゲラにおける小森輝彦氏の12シーズン目は、彼の最後のシーズンとなる。この歌手は今シーズンの終わりに家族とともに日本に帰国することを決意した。
ずっとドイツに留まるつもりは彼にはもともとなかった ー 彼は最初からドイツ生活を、いわゆる「修業時代」と見なしており、マイスター(ドイツの親方制度で言う親方の称号)になるための修行というつもりだった。そして2011年の4月に歌劇場総裁のマティアス・オルダーグから宮廷歌手の称号を授与されたことで、いまやマイスター証書以上のものを手にしたと言っても良いだろう。今、彼は今まで彼が享受したものを還元するために、日本へ帰還するべきだと、その時が来たのだと感じている。
ずっと故郷、日本とのつながりは大切にしてきし、定期的に東京や他の日本の音楽的に重要な都市に客演して大きな成功を収めてきた。

彼のスケジュール帳はいつも、客演の予定で埋まっていた。その中でも、2006年のザルツブルク音楽祭における演奏会形式の世界初演で、ヘンツェのオペラ「午後の曳航」で首領を歌った事は、その中のハイライトの一つと言えるだろう。今年の夏は兵庫県立芸術文化センターにおけるJ.シュトラウスのオペレッタ「こうもり」の公演で、やはり宮廷歌手であるヨッヘン・コヴァルスキーと舞台をともにし、アイゼンシュタインを歌った(写真を参照)
いつの間にか、小森氏はテアター&フィルハーモニー テューリンゲンの契約の拘束のため、日本からの魅力的なオファーを断り続ける状況になってきていた。ピツァロ(フィデリオ)、フィガロ、さまよえるオランダ人や、彼の夢の役であるアムフォルタス(パルシファル)などを。劇場というのは長期的に、早めに計画を立てていくものである。
それとは別に、彼は日本の音楽大学の客員准教授として教鞭を執っており、他の音楽大学からも教師として問い合わせを受けた。そして40人を超えるプライベートの生徒もおり、日本に帰ってからの毎日が多忙である事は疑いがない。彼は自分が学んだ事、舞台表現者として身につけたものを全て還元したいと考えているのだ。
11歳の息子、健登も日本の学校へ移る事になるわけで、もう東京のシュタイナー学校に届け出ずみだ。ゲラのシュタイナー学校は小森一家の不在を寂しく感じる事になるだろう。
しかし小森氏は別れの時までに、まだいくつかのコンサートを行うことを明らかにしている。劇場後援会との最後のコラボレーションとして、お別れコンサートを企画している。アルテンブルクでは10月21日に歌曲の夕べが、ゲラでは4月28日と5月8日の二回のコンサートが予定されている。
壊滅的な春の震災以来、この人情家の歌手にとって、理性的な理由に加えてもう一つ、日本へ帰るための感情的な要素が加わってしまった。日本へどうしても帰らねばならないと。彼は日本人であり、この状況の中でこそ故郷に自分が属していると強く感じるのだ。彼の祖国は、彼がドイツで学ぶために奨学金をもって助け、送り出した国でもあるのだ。

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兵庫県立芸術文化センター公演「こうもり」第二幕 シャンパンの歌
撮影:飯島隆

「テューリンゲンは僕の第二の故郷となりました。そして出来る事なら、何度でも戻ってきたいと思っています」と彼はすでに表明している。
しかし、別れの時までには、彼が歌ってきた多くの役柄・・・彼を聴いてきた聴衆はとりわけ彼が歌ってきたタイトル・ロールを思い浮かべる。リゴレットやさまよえるオランダ人、ナブッコ、ドン・ジョヴァンニ、ヴォツェックやヴァレンシュタインなどの役柄にいくつかの役がが新しく加わることになる。
彼は今、パウル・リンケのオペレッタ「ルーナ夫人」を楽しんでいる。彼は方言を好み、喜んで「ベルリン弁」の練習をしている。そしてジルヴェスターには再びベートーベンの第九を歌う事になっている。エスカミリオとフルート氏・・「カルメン」と「ウィンザーの陽気な女房達」は、彼がゲラとアルテンブルクの契約を得て日本を去る直前に歌った作品だが、今シーズンにこの二つの役をここで歌ってシーズンを終える事になる。そうして輪が閉じるというわけだ。
参考までに・・・
小森輝彦氏は1967年に東京で生まれ、東京学芸大学附属高校で声楽に目覚めた。サッカー部のトレーニングでの力強い叫び声が、当時文化祭で行われるグノーの「ファウスト」のメフィスト役を歌う代理歌手を探していた音楽部の同級生の注意を引いたのだ。彼はその時、楽譜を読むことも出来なかったが、素早くこの役を身につけてオペラへの熱意を燃え上がらせた。そして18歳の時に東京芸術大学で声楽を学び始めた。
1985年から1989年の間大学学部で学んだあと大学院へ進み、オペラ科の修士課程を修了した。また、学生時代から数々の著名な歌手のマスタークラスを受講していた。1992年から1994年までは文化庁オペラ研修所の第九期生として研修し、1995年には文化庁芸術家在外派遣研修員として、ベルリン芸術大学に派遣された。1992年にはカワイミュージックショップコンクール、1995年には藤沢オペラコンクール第二位、1998年にはルクセンブルクの国際声楽コンクールで奨励賞を、2000年には五島記念文化財団のオペラ新人賞を受賞した。
ラインスベルク音楽祭で作曲家のジークフリート・マットゥスや指揮者のロルフ・ロイターと知り合い、アルテンブルク・ゲラ市立歌劇場のオーディションを受けるように勧められて、当時のオペラ監督ブリューアー教授にすぐに採用された。

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「日本への帰国のお知らせ」

日本への帰国のお知らせ

いつも僕のホームページを見て下さっているみなさまへの大切なご報告をしたいと思います。
 
今までゲラの劇場で12年間の長きにわたって歌ってきました。ベルリンでの留学時代をあわせるとドイツでの生活は17年になります。そして今、このシーズンを最後にしてゲラの劇場での仕事を終え、故郷の日本へ帰国することにいたしました。シーズンの終わりにあたり、この公式サイトをご覧のみなさまにご報告させて頂きます。
 
僕にとって、ドイツの劇場の専属歌手になることは、高校の時に声楽を始めて以来の夢でした。岡村喬生さんの「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」という著作を読んで以来、ドイツ独自のレパートリーシステムの中に身を置き、同じ小屋で、同じ同僚とチームを組み、「おらが街の歌手」を誇りに思う聴衆の皆さんの前で歌い続けること、あたかも劇場に「住んで」いるような感覚で仕事をすることに憧れ、それを目指して学んできました。
ですから、この12年間は本当に僕にとって幸せな、豊かな年月でした。困難がなかったわけではありませんが、それらの困難を経験として与えられたことも含めて、本当に恵まれた12年だったと思っています。この場所に自分を運んでくれた家族、友人や同僚、聴衆の皆さんに心から感謝しています。そして折々で流れを変えたり速めたりした様々な「偶然」の力にも。
 
しかし僕は初めから、ドイツで歌手人生を全うするのではなく、いつかは日本を中心に活動したいと思っていました。つまり僕にとってのドイツ生活は修行の場であり、ドイツのマイスター制度で言うと「徒弟時代」にあたると考えておりました。そして何年か前からはっきりと単なる学びの時期を締めくくって次のステップに進むべき時が来た事を感じており、どういう形でそれを行うべきか模索を続けてまいりました。
 
一つは、年齢と共に自分が担う責任の重さが変化してきたことがあります。以前は表現者としてひたすら自分の仕事にのみ集中していれば良かったのですが、今はそれだけでは足りないと感じるようになったのです。今ではゲラの劇場のソリスト陣の中で最年長、契約年数も最長となりました。演奏の質という点ではもちろんですが、稽古を含む劇場生活の中で、演奏の質以外の部分でも相応の質の高さ、責任を果たすことを義務づけられたように思います。「学び」を自分の中心と考える時期にはピリオドを打たなくてはいけない、と言う思いです。
 
また、劇場の専属契約によってゲラ市を頻繁に離れることが難しく、せっかく頂いた他の劇場や日本からのオファーの多くを断らざるを得ない状況がありました。その中には本当に素晴らしい質の高いプロダクションが多くあり、今後こういう芸術的水準の高いプロダクションを諦めないで済む状況に身を置きたいと切実に思わされました。そして家族のこと、その他のもろもろの事情を考慮し、熟慮を重ねて今年の秋に日本に帰国することを決断いたしました。宮廷歌手の称号を頂いたのはもう帰国の決断をした後でしたが、僕にとっては「修業時代」の終わりを象徴的に感じさせてくれる出来事でした。
我が劇場の当時のインテンダント(総裁)オルダーグ氏に、契約を打ち切って日本に帰ることを伝えたときは、ありがたいことに強く慰留されました。しかし、僕の気持ちや、これが長年考えていた事なのだと言うことを説明して理解してもらいました。
 
春には劇場後援会と劇場がお別れコンサートを企画してくれました。日本でのデュオ・リサイタルでいつもペアを組んでいるピアニストの服部容子さんがこのお別れコンサートでの演奏を快く引き受けてくれ、このコンサートのためにドイツまで飛んできてくれました。ゲラ市立歌劇場での二回のコンサートの他、ヴァイマールのシュタイナー・ハウスでもお別れコンサートを行い、音楽を通じてお別れのメッセージを伝えました。シューベルトの「美しき水車小屋の娘」による歌曲の夕べと、今まで歌ってきた役のアリアを中心としたアリアの夕べを行いましたが、最後のアリアの夕べでは満場の観客によるスタンディング・オベーションとなり、ゲラの劇場の聴衆の愛情を強く感じました。
 
同じ顔ぶれ、同じプログラムのシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を2012年12月のデュオ・リサイタルで取り上げることもあり、デュオ・リサイタルVol.8はこのお別れコンサートとリンクして提携公演とすることとなり、お別れコンサートのプログラム冊子にも取り上げられています。このプログラム冊子は後援会がこの12年間の僕の活動を総括してくれたもので、またこのサイトでもご紹介したいと思っています。シーズン最後の「テアターオスカー」授与式では、思いがけず五度目の劇場オスカーとなる「Ehren-Oscar(名誉オスカー)」を受賞し、最後のシーズンを締めくくることが出来ました。
 
日本に戻ってからは、ありがたいことに多くのやりがいのあるプロダクションが待ってくれています。2013年には1月に新国立劇場の「タンホイザー」ビーテロルフ役、5月に東京二期会の「マクベス」タイトルロール、12月には宮城県民会館でのオペラ「遠い帆」で主人公の支倉常長があります。主催者の都合でまだ詳細を発表できませんが、その他にもいくつか、バリトン冥利に尽きる役を歌わせていただく予定です。
 
これからは日本での活動がほとんどとなり、皆さんと舞台でお会い出来る機会は飛躍的に増えると思います。
以前、「テューリンゲンの森から」というこのホームページのタイトルは、日本に帰国した際には変更せざるを得ないだろうと思っていました。しかし今は、その考えをあらためました。テューリンゲンは僕の第二の故郷であり、この12年間を通じてテューリンゲンの劇場文化は僕の一部となりました。このホームページのタイトルは、このまま大切に使わせてもらおうと思っています。
 
長い間のドイツ生活の中、皆さんの応援にどんなに励まされたかわかりません。心から皆さんの声援にお礼を申し上げると同時に、今後の日本での活動を暖かくお見守り下さるよう、お願い申し上げます。
 
 
小森輝彦
 
 
 
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「帰国についての新聞記事(2011年10月)」

2012年6月22日の日本経済新聞

2012年6月22日の日本経済新聞(夕刊)に、小森がインタビューを受けた記事が掲載されました。
「追想録」というコラムで「ドイツ歌曲 格調高く」と言う見出しで、5月になくなったドイツのバリトン歌手ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ氏の記事が掲載されています。
その中で、フィッシャー・ディースカウ氏の思い出などについて小森が受けたインタビューの内容が紹介されています。
日本経済新聞

署名運動の成果と追加援助について

劇場を救うための署名運動へご理解とご協力、ありがとうございます。表紙ページでもお知らせしたとおり、昨日、署名の数が10000人を超えました。
 
まだ署名運動は続いていますが、状況にも大きな前進がありました。劇場のスポンサーである自治体(ゲラ市、アルテンブルク市、アルテンブルク近郊、テューリンゲン州)の代表者と劇場運営陣が話し合いを重ねた結果、さらに116万ユーロの追加援助が決まったのです。
 
これも予想を超えて集まっている署名が政治家の関心をひいたことが大きく影響しています。署名をして下さった皆さん、本当にありがとうございました。署名運動は6月4日(月)まで受け付けています。署名運動についてはこちらをご覧下さい。
本来足りないのは200万ユーロなのですが、追加援助によって2013年から新たに取り交わされる予定の契約で、賃金水準がいまよりは下がらないですむことになりそうです。
ドイツでは劇場の標準的な契約条件を資金的に満たせない場合、Haustarifvertragという、その劇場独自の契約を組み直すことになります。色々なやり方があるようですが、大体の場合はリストラによって劇場の機能が落ちることを避けるために、一人一人の従業員の賃金をカットすることによって資金難をカバーするやり方です。
 
いままで2回締結された我が劇場でのHTV(Haustarifvertrag)では、劇場従業員が全員納得して、リストラを避けるために自らの賃金カットを受け入れました。これによって現在の我が劇場の賃金水準は、ドイツの標準レベルに比べて7%低くなっています。
そして、2013年にもう一度HTVによって劇場の構造を維持しようとすると、賃金レベルがさらに7%さがり、標準レベルに比べて14%低くなる予定でした。
賃金は低い、でも自治体にアピールするためにも劇場の活動を縮小はしたくない、というジレンマで、恒常的なオーバーワークに追われてきたと思います。
 
今回の116万ユーロ(約1億1900万円)の追加援助によって賃金レベルがいまの「標準-7%」に留まることで、リストラに舵を切ることなく、HTVを締結する方向に行くと思いますが、これも十分ではありません。運動はまだ続きます。
 
流れとしては、政治側から見ると、2013年に一度リストラをして劇場の規模を小さくしておけば、その後に劇場を閉鎖することはよりたやすくなるわけです。それを評していまの劇場総裁は「劇場の死の始まりだ」とインタビューで述べました。
 
これはゲラのみならず、ドイツ全土で起こっている傾向で、数日前にもアイゼナハの劇場の署名運動のニュースが入ってきました。今回のゲラでの署名運動や劇場のデモ運動、市民への呼びかけを通じて、こうしたポジティブな結果に結びついたという事実は、ドイツ全土に広がっている文化予算削減に対抗している文化人にとって大きな朗報だと思います。
 
我々の劇場では、この問題が持ち上がって以来、公演の終了後にカーテンコールの時に時間を頂いて、我々の運動への参加を聴衆の皆さんにお願いしてきました。そして、その中でも言っているのですが、この運動はドイツ文化を守るためでもあるが、聴衆の皆さんの子供、そして孫の世代まで劇場で生の文化に触れる機会を残していくための戦いでもあるのです。だから、いま問題になっている次の4年間を何とかする戦いではなく、その10年後20年後にも、子供達が劇場で芸術に触れる機会を確保するための運動なのだ、と。
 
こんなに多くの劇場が中都市にも残っているのは、ヨーロッパでもドイツだけです。逆に言えば、それだけいままでは恵まれていた、と言う事でもあります。日本とは違う土壌で、そういう意味でも色々と考えさせられます。
ドイツ音楽が生まれた背景に欠かせなかった、豊かなドイツの音楽風土はこういう劇場文化に支えられています。ドイツ音楽を愛する日本人はそういう間接的な意味でもこのドイツの劇場文化の恩恵を被っているように思います。今後も出来る形で応援していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。 

追加援助

劇場を救うための署名運動へご理解とご協力、ありがとうございます。昨日、署名の数が10000人を超えました。
 
まだ署名運動は続いていますが、状況にも大きな前進がありました。劇場のスポンサーである自治体(ゲラ市、アルテンブルク市、アルテンブルク近郊、テューリンゲン州)の代表者と劇場運営陣が話し合いを重ねた結果、さらに116万ユーロの追加援助が決まったのです。詳しくはこちらをご覧下さい。
 
これも予想を超えて集まっている署名が政治家の関心をひいたことが大きく影響しています。署名をして下さった皆さん、本当にありがとうございました。署名運動は6月4日(月)まで受け付けています。署名運動についてはこちらをご覧下さい。

新国立劇場「タンホイザー」

2013年1月〜2月
 
リヒャルト・ワーグナー作曲 オペラ全3幕
タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦
Richard Wagner Romantische Oper in 3 Akten
Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg
ドイツ語上演/字幕付
新国立劇場オペラ劇場
2013年 
1月23日 17:30開演 
1月26日 14:00開演
1月30日 17:30開演
2月2日  14:00開演
2月5日  14:00開演
 
スタッフ
【指揮】コンスタンティン・トリンクス
【演出】ハンス=ペーター・レーマン
【美術・衣裳】オラフ・ツォンベック
【照明】立田雄士
キャスト
【領主ヘルマン】クリスティン・ジグムンドソン
【タンホイザー】スティー・アナセン
【ヴォルフラム】ヨッヘン・クプファー
【ヴァルター】望月哲也
【ビーテロルフ】小森輝彦
【ハインリヒ】高橋 淳
【ラインマル】斉木健詞
【エリーザベト】ミーガン・ミラー
【ヴェーヌス】エレナ・ツィトコーワ
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団
新国立劇場の情報ページはこちら

署名のお願いについて


僕の所属するアルテンブルク・ゲラ市立歌劇場が、州や市の援助が減らされる危険にさらされています。
2013年から2016年のスポンサー(市と州)との契約が今年になってから更新されたのですが、その金額では大規模のリストラ、あるいは大幅な賃金カットが不可欠となり、劇場の運営が今の芸術的レベルを保つ事が大変難しくなります。
 
プレスでは連日この問題を報道していますが、今その判断を覆すための署名運動が展開されています。この署名運動に日本からも参加して下さったらとても嬉しいです。
詳しくはこちらのリンクをご覧下さい。どうぞよろしくお願いします!