Der Abgang von einer langen wichtigen Arbeit ist immer mehr traurig als erfreulich
Friedrich Schiller
どんな時でも長く、大切な仕事から退くことは、喜ばしいと言うよりは悲しいものである
フリードリヒ・シラー
5回目のテアターオスカー受賞
去る6月24日に、毎年恒例の「テアター・オスカー」の授賞式が行われました。最後のオスカー授賞式となる今回は「名誉オスカー(Ehren-Oskar)」を授与され、これでオスカーの受賞は通算5回目となりました。
テアター・オスカーの新聞記事
テアター・オスカーの賞状より・・・
テアター・オスカー 2012年
アルテンブルク市立歌劇場後援会およびゲラ市立歌劇場後援会の二つの協会は、
2012年の名誉オスカーを、宮廷歌手小森輝彦氏に授与します。
二つの協会はこの表彰によって、宮廷歌手小森氏のアルテンブルク・ゲラ市立歌劇場に所属した12年間の全ての芸術的活動を評価し、讃えたいと思います。
彼の声楽芸術と役作りの確かさによって、彼は観客に忘れ得ない劇場体験をもたらし、観客のアイドルとなりました。2002年、2003年、2005年、2007年と四度もテアターオスカーを授与されたことがその証です。リゴレット、さまよえるオランダ人、ジェルモン、「フィガロ」の伯爵、ヤーゴ、そしてスカルピアとして、彼はこの尊敬を獲得しました。
それに加えて彼の「コジマ」でのニーチェ、ヴァレンシュタインやヴォツェックは、我が劇場に於ける忘れられたオペラの発掘上演や世界初演によるドイツ全土への関心を生みました。
我々の劇場に於ける、この傑出した活動に対する評価として、2011年には小森氏に宮廷歌手の称号が授与されました。
宮廷歌手小森輝彦氏は、いまは彼の故郷である日本への準備をしています。ゲラ市ではお別れコンサートが行われ、彼は聴衆とでお別れする機会を持ちました。
アルテンブルク市立歌劇場後援会はこの舞台の上で今日という日に、彼と共に過ごした年月への感謝の言葉を述べたいと思います。我々は彼を芸術家としてだけ評価しているのではなく、小森輝彦さんの人柄を敬愛しています。彼の謙虚さ、彼の観客に対する親切さ、芸術的成長に於ける彼の一途さはその例です。
困難にあってさえ、彼は無私の態度で、自然災害で被災した彼の同邦人のために行動を起こしました。我々も可能な機会をもってチャリティーコンサートを共催し、また我々の催した「若者の弁論、音楽コンクール」のガラコンサートでの入場収入と寄付によって支援しました。
我々は、宮廷歌手小森輝彦氏と彼の家族の未来に対して、考えられる限りの最高の幸せをお祈りし、再会の時を楽しみにしています。
あなたの業績に対する感謝を込めて
バーバラ・グルービッチュ カールハインツ・ヴァルター
アルテンブルク市立歌劇場後援会 理事 ゲラ市立歌劇場後援会 理事
アルテンブルク、2012年6月24日
東テューリンゲン新聞2012年6月23日の記事
東テューリンゲン新聞(ネット版)
「素晴らしい時を過ごしました」
宮廷歌手小森輝彦氏とのインタビュー。この日本人は12年の長きにわたってゲラに住み、ゲラでの仕事に従事した。今、彼は家族とともに彼の故郷へ帰ります。
OTZ:17年もドイツに住み、そのうちの12年をゲラで過ごされました。そして今、なぜ日本に戻られるのですか?
小森:私は歌を始めたときに、ドイツの劇場の専属歌手として働きたいという目標を持っていました。この目標は幸せなことに現実となりました。しかし私は最初から、永久にドイツに留まるつもりはなかったのです。
このドイツでの期間は、私にとって言わば「修業時代」のようなものです。もちろんプロとして舞台に立ちながらですが、私は多くのことをここで学びました。劇場での生活は、私が夢描いていたとおりのもので、私はとても幸せでした。そして今、次のステップに進まなくてはなりません。
OTZ:その次のステップとは?
小森:教鞭を執ることが一つの新しい役割です。私がここで得た経験を若い人たちに引き継ぎたい。声楽技術だけでなく、芸術と文化という視点から我々の仕事を捉えることも。
舞台人としても、今まで私は、ただ歌う事にだけ集中していれば良かったわけですが、これからはただ上手く歌うだけでは不十分です。一つのプロジェクトを包括的に俯瞰した上で公演全体に寄与する必要があります。
OTZ:長い間、異文化であるドイツの日常、ドイツのメンタリティーの中で暮らしてこられました。ドイツ生活を総括するとどうなりますか?
小森:ドイツの文化は以前から私の憧れでした。でも、日本で輸入品としてのドイツ文化を見聞きするのと、ドイツ文化が生まれた場所で実際に体験するのでは大きな違いがあります。この12年で東テューリンゲンは私の第二の故郷になりました。
この年月の中で、私は多くの友人や知人を得ることが出来ました。この土地で「お客さん」としてではなく、友として受け入れられること、これは本当に素晴らしいことでした。それに息子の健登にとってはドイツが故郷のようなものです。生まれは東京ですが、ほとんどの時間をここで過ごしましたから。
OTZ:12年間アルテンブルク・ゲラ市立歌劇場で歌われました。どんなシーンが想い出に残っていますか?
小森:ワーグナーの「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」「タンホイザー」などをドイツで歌えたことは、私にとって大きな意義がありました。同様にプッチーニの「トスカ」や、ニーチェのオペラ「コジマ」での素晴らしい体験も忘れられません。
「コジマ」の作曲者であるジークフリート・マットゥス氏は私を以前から知っていたので、作曲の際にも私の声をイメージしてくれていました。私は哲学者のフリードリヒ・ニーチェを演じました。ニーチェが晩年、狂気の中で裸で彼の書斎で踊ったというエピソードから、オペラのクライマックスに取り入れられた「デュオニソスの踊り」は、踊りによる身体表現という意味で私にとって新たな挑戦でした。
OTZ:あなたは何人ものオペラ監督の下で歌われましたが、彼らはあなたの仕事の中で、どんな影響を与えましたか?
小森:私の最初のオペラ監督、シュテファン・ブリューアー教授は私の最初のメンター(経験に富んだ助言者)と言えます。とはいえアーティストとして常に意見が一致していたというわけではなく、コンセンサスにたどり着くために格闘してきました。この時期に私は、作品に没入すると言うことを学びました。役柄を「いのち」で満たすのです。ブリューアー教授の演出では、激しいアクションが求められました。
それに対して、私の二人目のオペラ監督でインテンダント(総裁)でもあったオルダーグ教授は、全てを凝縮する事を求めました。豪華な衣装に包まれた典型的で大時代的なオペラ歌手の演技は望まれていないわけです。
しかしこういう静的な表現はむしろ日本人が得意とするところです。日本を代表するオペラ歌手である私の師の一人が言っていたことを私は忘れられません。「もし私が歌唱によってのみ演劇性をも表現できたら、それが最高だ」と。少なさの中に豊かさがあるのです。音楽の中の演劇性を見出す事は、日本人としての私のモットーでもあります。そういう経緯を経て今、私は表現者として自分の仕事ぶりに確かな手応えを得られています。オルダーグ氏の指導によって表現者としてこの段階に到達できたことは、私にとって本当に幸福なことです。
OTZ:ゲラとアルテンブルクの聴衆を、あなたはどんな風に記憶にとどめておくのでしょうか?
小森:この劇場のお客様は、私を心から受け容れ、私を歌い手として更に育ててくれた聴衆です。この劇場の聴衆の皆さんから僕は本当に多くを学びましたし、共に育ってきたとさえ言えます。彼らは私の一部であり続けるでしょう。
それを助けてくれたのは、このアルテンブルクとゲラの劇場の理想的な「サイズ」です。聴衆が演じ手を間近に感じる事が出来て、演じ手のの涙や汗を見られる距離で、音が空気を振るわせる様を体験できる劇場なのです。ここでは巨大な劇場よりずっと多くのものが客席に届きます。
OTZ:オルダーグ総裁によってあなたは2011年4月に宮廷歌手の称号を贈られました。あなたにとって「騎士叙任式」のような事件でしたか?
小森:宮廷歌手の称号というのは私にとって、夢見ていた事さえ口に出すことも憚られる様なものでしたから。アルテンブルク市立歌劇場140周年記念のガラコンサートでこの称号を授与された時は本当に青天の霹靂でした。
数人の同僚が劇場の名誉会員の称号を授与されているのを見て、私は少し怪訝に思っていました。もし私も名誉会員に指名されるのであれば、年齢から言って若い私が最初に舞台に呼ばれるはずだったからです。袖に呼び出されたときは何が行われるのか知らされておらず、袖での待ち時間の間、お客様の前でどういう挨拶をするべきなのかと頭を巡らしていたのですが、そのことを告げられたときは本当に言葉が出てきませんでした。
OTZ:宮廷歌手として、あなたは最初でまた唯一の日本人と言うことですね・・・。
小森:はい。それをとても誇りに思っています。もちろんこれによって、私の責任はずっと重くなりました。私はより努力を続け、ソリストとしてより輝く義務を課せられたのです。
OTZ:ドイツの専属歌手から、日本でのフリーランスの歌手に。この変化に対応するのは難しいでしょうか?
小森:留学以前から日本でオペラ歌手として歌ってきましたし、この劇場での契約の間にも頻繁に日本に客演していました。私の故郷での仕事の様子は良くわかっていますから対応は難しくないと思いますよ。
この12年間は、毎日14時に発表になる稽古予定をみて翌日の稽古予定を知るという毎日でした。この日常的ルーチンがなくなることは寂しく感じるかも知れません。これからはもっと先の予定を厳密に立てて行かねばなりません。
専属契約では基本的に劇場を離れるのが難しく、日本からのオファーの三分の二くらいは断らざるを得ませんでしたが、これからは自由が大きくなります。。私は数年前から日本の私立音楽大学の客員准教授として教えていますが、これからもそうして教鞭を執るかたわら、オファーを受けて歌う仕事にも集中する必要があります。今まで日本で歌い続けられたのは、アルテンブルク・ゲラ市立歌劇場が専属契約の拘束がある中で最大限に好意的に日本への客演を許してくれたからです。これには私はとても感謝しています。
OTZ:どんな舞台の予定がありますか?
小森:11月には演奏会形式での「さまよえるオランダ人」でタイトルロールを歌います。そのあとはR.シュトラウスのオーケストラ歌曲の演奏会やベートーベンの第九交響曲のソロをつとめます。2013年の1月にはワーグナーの「タンホイザー」、5月には「マクベス」のタイトルロール、そのあとに2つのオペラが続きます。(主催者側で公演情報未発表のため詳報は追ってお伝えします:訳注)そのあとは震災の被災地である仙台での日本オペラでも主役を歌う事になっており、これは当地の歴史にちなんだ作品です。
OTZ:あなたが懐かしがるであろう「典型的ドイツ」のものとはなんでしょう?
小森:はい、時間と安らぎでしょうか。東京の生活は慌ただしいですから。私たちにはゲラ近郊のニーブラと言うところで、大きな庭と草原を持つ友人がいます。そこで私たちは大いにリラックスして、エスプレッソと共に安らぎの時間を満喫することが出来ます。これは日本人にとって難しい事なのですが、私たちはそういう機会を得て、また大変それを好ましく思っています。私はこういう安らぎの時を東京の忙しさの中でも失わないようにしたいのです。
特に息子の健登にとってはこの生活リズムは理想的でした。ほとんど毎週末と学校が休みの時にはこのニーブラの友人を訪ねています。息子はその友人が手作りのバンガローを新築したとき一緒に手伝ったり、そこで木を削って工作にいそしみました。この友人は息子にとって「ゲラでのおじいさん」みたいなものです。日本に戻ったら息子はとても寂しく思うでしょうね。
OTZ:ドイツ料理との別れは悲しいですか?
小森:ドイツのハムとソーセージが食べられなくなるのは悲しいですね。息子の大好物はテューリンゲンの焼きソーセージですし。日本に住むドイツ人は、ドイツ風のハムとソーセージが入手できずに苦労しているようです。でも私はインターネットで、東京でゲラでよく飲まれているケストリッツの黒ビールを扱っている店を見つけてありますよ。
OTZ:あなたの息子の健登くんはゲラではシュタイナー学校に通っています。東京ではどうなりますか?
小森:はい。東京にもシュタイナー学校があります。2010年の夏に帰国した際に、健登は三週間の間、この東京のシュタイナー学校に体験入学をすることが出来ました。川の流れなど自然が近くにあり、校庭には自分たちで作った釜があり、素晴らしい環境です。今ではその時の体験入学をきっかけにして、ゲラと東京のシュタイナー学校の間で文通が始まっています。私の家内がその手紙を訳して間を取り持っています。
OTZ:もう東京に家は見つけたのですか?
小森:まだなのです。9月にはマーラーのオーケストラ歌曲の演奏会で東京に戻りますので、その時に探すつもりです。緑が近くにある環境・・・ゲラでの家のように・・・に家が見つかると良いのですが。
OTZ:ドイツでいまだに馴染めないという事柄がありますか?
小森:頭で理解は出来ても受け容れにくいことと言うのはありましたね。メンタリティーの違いによるものでしょう。例えば買い物をするとき、最初の印象では、ドイツの店員さんは日本の店員さんの様に丁寧とは言えません。
でも、あとで気付いたのですが、日本の店員さんの丁寧さはマニュアルによる丁寧さで、ストレートな真心からではないことが多い。今では、ストレートでも正直なドイツの店員さんの姿勢を好ましく思います。
OTZ:どんなものをドイツから想い出の品としてトランクに詰める予定ですか?
小森:ツォイレンローダの陶芸家による食器のセットが気に入っています。数週間前のゲラの陶芸市で、いくつか買い足しました。カーラの陶器も持って帰りたいですね。息子の木の勉強机は大変気に入っていて、是非持って帰りたい。私の同僚のギュンター・マクルヴァルト氏が、彼のオペラの楽譜をたくさんプレゼントしてくれましたから、これは絶対に持って帰ります。残念ながら食品は持って行けませんが、そうでなければテューリンゲン風焼きソーセージとドイツのビールを持って行きたいところです。そしてドイツのパン。日本では、また自分でパンを焼くことになるでしょう。
OTZ:東テューリンゲンの我々は、あなたのドイツへの客演を期待できますか?
小森:もうフライトを10月31日に予約してあります。でもドイツにまた演奏のために必ず戻ってきます。ゲラの劇場後援会は、私の日本での演奏会を聴くために東京への旅行を企画してくれているようです。
インタビュアー:クリスティーネ・クナイゼル
帰国についての新聞記事(2011年10月)
掲載された新聞へのリンク(ネット上にあるもののみ)
アルテンブルク・ネット紙
ノイエス・ゲラ紙
劇場のサイト
オストレンダー・フォルクスツァイトゥング紙
東テューリンゲン新聞
宮廷歌手小森輝彦氏にとっての、東テューリンゲンでの最後のシーズン
かのヘルデンバリトンは、2012年の秋に日本へ戻る事となった
アルテンブルクとゲラにおける小森輝彦氏の12シーズン目は、彼の最後のシーズンとなる。この歌手は今シーズンの終わりに家族とともに日本に帰国することを決意した。
ずっとドイツに留まるつもりは彼にはもともとなかった ー 彼は最初からドイツ生活を、いわゆる「修業時代」と見なしており、マイスター(ドイツの親方制度で言う親方の称号)になるための修行というつもりだった。そして2011年の4月に歌劇場総裁のマティアス・オルダーグから宮廷歌手の称号を授与されたことで、いまやマイスター証書以上のものを手にしたと言っても良いだろう。今、彼は今まで彼が享受したものを還元するために、日本へ帰還するべきだと、その時が来たのだと感じている。
ずっと故郷、日本とのつながりは大切にしてきし、定期的に東京や他の日本の音楽的に重要な都市に客演して大きな成功を収めてきた。
彼のスケジュール帳はいつも、客演の予定で埋まっていた。その中でも、2006年のザルツブルク音楽祭における演奏会形式の世界初演で、ヘンツェのオペラ「午後の曳航」で首領を歌った事は、その中のハイライトの一つと言えるだろう。今年の夏は兵庫県立芸術文化センターにおけるJ.シュトラウスのオペレッタ「こうもり」の公演で、やはり宮廷歌手であるヨッヘン・コヴァルスキーと舞台をともにし、アイゼンシュタインを歌った(写真を参照)
いつの間にか、小森氏はテアター&フィルハーモニー テューリンゲンの契約の拘束のため、日本からの魅力的なオファーを断り続ける状況になってきていた。ピツァロ(フィデリオ)、フィガロ、さまよえるオランダ人や、彼の夢の役であるアムフォルタス(パルシファル)などを。劇場というのは長期的に、早めに計画を立てていくものである。
それとは別に、彼は日本の音楽大学の客員准教授として教鞭を執っており、他の音楽大学からも教師として問い合わせを受けた。そして40人を超えるプライベートの生徒もおり、日本に帰ってからの毎日が多忙である事は疑いがない。彼は自分が学んだ事、舞台表現者として身につけたものを全て還元したいと考えているのだ。
11歳の息子、健登も日本の学校へ移る事になるわけで、もう東京のシュタイナー学校に届け出ずみだ。ゲラのシュタイナー学校は小森一家の不在を寂しく感じる事になるだろう。
しかし小森氏は別れの時までに、まだいくつかのコンサートを行うことを明らかにしている。劇場後援会との最後のコラボレーションとして、お別れコンサートを企画している。アルテンブルクでは10月21日に歌曲の夕べが、ゲラでは4月28日と5月8日の二回のコンサートが予定されている。
壊滅的な春の震災以来、この人情家の歌手にとって、理性的な理由に加えてもう一つ、日本へ帰るための感情的な要素が加わってしまった。日本へどうしても帰らねばならないと。彼は日本人であり、この状況の中でこそ故郷に自分が属していると強く感じるのだ。彼の祖国は、彼がドイツで学ぶために奨学金をもって助け、送り出した国でもあるのだ。
兵庫県立芸術文化センター公演「こうもり」第二幕 シャンパンの歌
撮影:飯島隆
「テューリンゲンは僕の第二の故郷となりました。そして出来る事なら、何度でも戻ってきたいと思っています」と彼はすでに表明している。
しかし、別れの時までには、彼が歌ってきた多くの役柄・・・彼を聴いてきた聴衆はとりわけ彼が歌ってきたタイトル・ロールを思い浮かべる。リゴレットやさまよえるオランダ人、ナブッコ、ドン・ジョヴァンニ、ヴォツェックやヴァレンシュタインなどの役柄にいくつかの役がが新しく加わることになる。
彼は今、パウル・リンケのオペレッタ「ルーナ夫人」を楽しんでいる。彼は方言を好み、喜んで「ベルリン弁」の練習をしている。そしてジルヴェスターには再びベートーベンの第九を歌う事になっている。エスカミリオとフルート氏・・「カルメン」と「ウィンザーの陽気な女房達」は、彼がゲラとアルテンブルクの契約を得て日本を去る直前に歌った作品だが、今シーズンにこの二つの役をここで歌ってシーズンを終える事になる。そうして輪が閉じるというわけだ。
参考までに・・・
小森輝彦氏は1967年に東京で生まれ、東京学芸大学附属高校で声楽に目覚めた。サッカー部のトレーニングでの力強い叫び声が、当時文化祭で行われるグノーの「ファウスト」のメフィスト役を歌う代理歌手を探していた音楽部の同級生の注意を引いたのだ。彼はその時、楽譜を読むことも出来なかったが、素早くこの役を身につけてオペラへの熱意を燃え上がらせた。そして18歳の時に東京芸術大学で声楽を学び始めた。
1985年から1989年の間大学学部で学んだあと大学院へ進み、オペラ科の修士課程を修了した。また、学生時代から数々の著名な歌手のマスタークラスを受講していた。1992年から1994年までは文化庁オペラ研修所の第九期生として研修し、1995年には文化庁芸術家在外派遣研修員として、ベルリン芸術大学に派遣された。1992年にはカワイミュージックショップコンクール、1995年には藤沢オペラコンクール第二位、1998年にはルクセンブルクの国際声楽コンクールで奨励賞を、2000年には五島記念文化財団のオペラ新人賞を受賞した。
ラインスベルク音楽祭で作曲家のジークフリート・マットゥスや指揮者のロルフ・ロイターと知り合い、アルテンブルク・ゲラ市立歌劇場のオーディションを受けるように勧められて、当時のオペラ監督ブリューアー教授にすぐに採用された。
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「日本への帰国のお知らせ」
日本への帰国のお知らせ
いつも僕のホームページを見て下さっているみなさまへの大切なご報告をしたいと思います。
今までゲラの劇場で12年間の長きにわたって歌ってきました。ベルリンでの留学時代をあわせるとドイツでの生活は17年になります。そして今、このシーズンを最後にしてゲラの劇場での仕事を終え、故郷の日本へ帰国することにいたしました。シーズンの終わりにあたり、この公式サイトをご覧のみなさまにご報告させて頂きます。
僕にとって、ドイツの劇場の専属歌手になることは、高校の時に声楽を始めて以来の夢でした。岡村喬生さんの「ヒゲのオタマジャクシ世界を泳ぐ」という著作を読んで以来、ドイツ独自のレパートリーシステムの中に身を置き、同じ小屋で、同じ同僚とチームを組み、「おらが街の歌手」を誇りに思う聴衆の皆さんの前で歌い続けること、あたかも劇場に「住んで」いるような感覚で仕事をすることに憧れ、それを目指して学んできました。
ですから、この12年間は本当に僕にとって幸せな、豊かな年月でした。困難がなかったわけではありませんが、それらの困難を経験として与えられたことも含めて、本当に恵まれた12年だったと思っています。この場所に自分を運んでくれた家族、友人や同僚、聴衆の皆さんに心から感謝しています。そして折々で流れを変えたり速めたりした様々な「偶然」の力にも。
しかし僕は初めから、ドイツで歌手人生を全うするのではなく、いつかは日本を中心に活動したいと思っていました。つまり僕にとってのドイツ生活は修行の場であり、ドイツのマイスター制度で言うと「徒弟時代」にあたると考えておりました。そして何年か前からはっきりと単なる学びの時期を締めくくって次のステップに進むべき時が来た事を感じており、どういう形でそれを行うべきか模索を続けてまいりました。
一つは、年齢と共に自分が担う責任の重さが変化してきたことがあります。以前は表現者としてひたすら自分の仕事にのみ集中していれば良かったのですが、今はそれだけでは足りないと感じるようになったのです。今ではゲラの劇場のソリスト陣の中で最年長、契約年数も最長となりました。演奏の質という点ではもちろんですが、稽古を含む劇場生活の中で、演奏の質以外の部分でも相応の質の高さ、責任を果たすことを義務づけられたように思います。「学び」を自分の中心と考える時期にはピリオドを打たなくてはいけない、と言う思いです。
また、劇場の専属契約によってゲラ市を頻繁に離れることが難しく、せっかく頂いた他の劇場や日本からのオファーの多くを断らざるを得ない状況がありました。その中には本当に素晴らしい質の高いプロダクションが多くあり、今後こういう芸術的水準の高いプロダクションを諦めないで済む状況に身を置きたいと切実に思わされました。そして家族のこと、その他のもろもろの事情を考慮し、熟慮を重ねて今年の秋に日本に帰国することを決断いたしました。宮廷歌手の称号を頂いたのはもう帰国の決断をした後でしたが、僕にとっては「修業時代」の終わりを象徴的に感じさせてくれる出来事でした。
我が劇場の当時のインテンダント(総裁)オルダーグ氏に、契約を打ち切って日本に帰ることを伝えたときは、ありがたいことに強く慰留されました。しかし、僕の気持ちや、これが長年考えていた事なのだと言うことを説明して理解してもらいました。
春には劇場後援会と劇場がお別れコンサートを企画してくれました。日本でのデュオ・リサイタルでいつもペアを組んでいるピアニストの服部容子さんがこのお別れコンサートでの演奏を快く引き受けてくれ、このコンサートのためにドイツまで飛んできてくれました。ゲラ市立歌劇場での二回のコンサートの他、ヴァイマールのシュタイナー・ハウスでもお別れコンサートを行い、音楽を通じてお別れのメッセージを伝えました。シューベルトの「美しき水車小屋の娘」による歌曲の夕べと、今まで歌ってきた役のアリアを中心としたアリアの夕べを行いましたが、最後のアリアの夕べでは満場の観客によるスタンディング・オベーションとなり、ゲラの劇場の聴衆の愛情を強く感じました。
同じ顔ぶれ、同じプログラムのシューベルトの「美しき水車小屋の娘」を2012年12月のデュオ・リサイタルで取り上げることもあり、デュオ・リサイタルVol.8はこのお別れコンサートとリンクして提携公演とすることとなり、お別れコンサートのプログラム冊子にも取り上げられています。このプログラム冊子は後援会がこの12年間の僕の活動を総括してくれたもので、またこのサイトでもご紹介したいと思っています。シーズン最後の「テアターオスカー」授与式では、思いがけず五度目の劇場オスカーとなる「Ehren-Oscar(名誉オスカー)」を受賞し、最後のシーズンを締めくくることが出来ました。
日本に戻ってからは、ありがたいことに多くのやりがいのあるプロダクションが待ってくれています。2013年には1月に新国立劇場の「タンホイザー」ビーテロルフ役、5月に東京二期会の「マクベス」タイトルロール、12月には宮城県民会館でのオペラ「遠い帆」で主人公の支倉常長があります。主催者の都合でまだ詳細を発表できませんが、その他にもいくつか、バリトン冥利に尽きる役を歌わせていただく予定です。
これからは日本での活動がほとんどとなり、皆さんと舞台でお会い出来る機会は飛躍的に増えると思います。
以前、「テューリンゲンの森から」というこのホームページのタイトルは、日本に帰国した際には変更せざるを得ないだろうと思っていました。しかし今は、その考えをあらためました。テューリンゲンは僕の第二の故郷であり、この12年間を通じてテューリンゲンの劇場文化は僕の一部となりました。このホームページのタイトルは、このまま大切に使わせてもらおうと思っています。
長い間のドイツ生活の中、皆さんの応援にどんなに励まされたかわかりません。心から皆さんの声援にお礼を申し上げると同時に、今後の日本での活動を暖かくお見守り下さるよう、お願い申し上げます。
小森輝彦
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「帰国についての新聞記事(2011年10月)」