東日本大震災で考えること・・・一人の在独邦人として

震災のあと、今まで、何かの形で気持ちを整理したかったが出来なかった。このエッセイは明日のインタビューを前に、今は日本語で、自分の気持ちを言葉にしようという試みです。(本文より)
 
 
 
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最初は「また地震があったのか・・・」と思っただけだった。オペラ「ヘンゼルとグレーテル」の本番直前に、舞台で小道具のチェックをしている時、同僚から聞かされて大きな地震があったと知ったのだ。そのあと自分の出番がくるまでに携帯端末でニュースをみて規模を知り、愕然とした。東京の家族に電話をしても全く通じない。メールで連絡を試みた。
とりあえず家族の無事は確認できた。しかし胸の動悸が収まらない。ここからずっと何日も、ニュースから目が離せなくなった。もう見たくないと思っていてもニュースサイトを開いてしまう。ドイツと日本は8時間の時差がある。夜寝る前に日付が変わって動き始めた日本のニュースがどんどん入ってくる。心細くなりながら見続けるのを諦めてベッドに入り、翌日起きるとまず、本当にわなわなしながらまたニュースサイトを開く。毎朝この瞬間に考えていたことは「自分がのうのうと睡眠を取っている間に、日本がダメになっていたらどうしよう」と言うことだった。そしてどんどん具合が悪くなってきたのだが、それがなぜかは良く分かっていなかった。
「家族も友達も無事なのに何を心配する必要があるの?」と言われて顔から血の気が引くほど腹が立った。この辺でだんだん分かってきたのだが、僕には罪悪感があるのだ。自分が当事者なのか当事者じゃないのかもわからないのに、自分がこれだけ、文字通り「揺さぶられて」いる事で、相当参っているらしかった。直接被災したわけではないにもかかわらず、この未曾有の大惨事に完全に飲み込まれてもがいていた。また遠く離れて無事でいる事に罪悪感を感じていたのだ。
間違いなく日本人は痛めつけられた。そして僕も。でも声を大にして「痛い」と言えない。「日本から離れたところにいて良かったでしょ」と何度もこの土地の人に尋ねられる。どうしてそんな事を聞くんだろう?良かったわけがないのに。でも聞いた人は皆「無事で良かったね」と思って尋ねている。彼らの価値観の中での真心で、僕の無事を喜んでくれているのがわかる。
被災者の皆さん、特に一万人を超える死者、一万六千人あまりの行方不明者とその家族の皆さんの苦しみを軽んじる事になるかも知れぬと思うと、口に出す事を憚るのだが、僕は自分が無事だった事を素直に喜べない。これはほとんどのドイツ人には理解できない感情であるらしい。
被災した方々、被災者を心配するその家族、東京に住む多くの友人、関西地方に住む友人たち、そして我々外国ぐらしの日本人。同じ日本人でもそれぞれ違う場所で、地理的にも心理的にも違う距離でこの震災に揺さぶられている。でも、みんな当事者だといまは思う。「日本」が痛めつけられたのだ。「日本」を抱える人はみんな当事者なのだ。
「民族」「言語」「国籍」この三つの観点どれもが一致するグループというのは、世界で日本だけだそうだ。
この事が分かった時、やっと僕にとっての「震災」へのアクションが始まった。揺さぶられ続けて、ほとんど麻痺状態、あるいは硬直状態だった体に、だんだん血の気が戻ってくるのを感じた。そして自分が如何に日本を愛おしく思っているか、日本人である事を誇りに思っているかに気付かされた。
自分に何が出来るのか、何をするべきなのか。
大事なのは、可能な限り正しい情報を集め、冷静でいる事、適切な判断を下せる心理的肉体的状況にいる事だと思った。そして、やはり可能な限り、目の前にある自分の仕事をしっかりと平常心でこなして行く事。
この頃、だんだんパニックを起こさない日本人に対する欧米諸国の感嘆の声が上がり始めた。日本にいる皆もそれが日本人の美点だという事に勇気を持ったように思えた。僕自身も大きな勇気をもらった。日本、ちゃんと頑張ってる。
チャリティーコンサートの企画を進めた。いまやこの劇場の稽古になくてはならない存在のコレペティトアである長崎貴洋さんの発案だった。長崎さん、本当にありがとう。
劇場は無償でホールを提供すると約束してくれ、劇場は慈善事業の主催者になれないため、劇場後援会に主催をお願いすると快く引き受けてくれた。そして僕の親友であり、日本人の父を持つブラジル人テノール、リカルド・タムラ氏が二つ返事で出演を了承してくれた。彼とだったら稽古なしでもどんなプログラムでもバッチリだという自信があったし、リカルドもこの呼びかけをとても喜んでくれた。トスカ、オテロ、マノン・レスコー、ナクソス島のアリアドネで共演した彼のファンはゲラにも沢山いる。劇場も劇場後援会もリカルドの参加を大変に喜んだ。
明日は東テューリンゲン新聞のインタビューがある。家族全員で来て欲しいと言う記者の希望もきき、僕の希望として、今回のゲラでのチャリティー活動全体のくくりとして取材してもらう事と劇場に勤める日本人全員で取材に望みたいと申し入れた。前述の長崎さんの他、バレエのコレペティトアを務める片野・ドルシュ理子さん、オーケストラでトロンボーンを吹いている諸岡育子さん、バレエダンサーの渡辺あみさんと川端千帆さん。全部で6人も日本人が劇場で働いている。
震災のあと、今まで、何かの形で気持ちを整理したかったが出来なかった。このエッセイは明日のインタビューを前に、今は日本語で、自分の気持ちを言葉にしようという試みです。
明日のインタビューはドイツ人に対するメッセージだから、はっきりと伝えたいことがいくつかある。
一つは、冷静な対応を求めたいと言う事。可能な限り正確な情報を取捨選択し、自分にも他人にも、根拠のない不安を煽らないこと。ドイツ人は原発、放射能に対してアレルギー的とも言えるほどの激しい反応を見せる。「見えない敵」という表現も良く見るが、本当の見えない敵は「放射能」じゃない。「不安」という怪物なのだ。この怪物に餌をやってはいけない。
僕の周りのドイツ人の中には自分自身が半ばパニックの様になって僕らにコンタクトしてくる人がいる。僕らのことを心配してくれているからこそ落ち着きをなくすわけだが、どうもその不安の理由の一つは僕らの落ち着きぶりにあるらしいことが段々わかってきた。
パニックを起こさない日本人、と評価する報道がある反面、報道で見る日本人や実際に見ている僕らの態度が、何故落ち着いていられるのかがわからない部分があるらしい。そして「報道で言われている様に、日本人は真実を知らされていないから落ち着いているんだ」と思い、僕らに真心のこもった警告をする人も増えてきた。でも、その人達に、尋ねてみる。今どの程度の放射能が、どの場所で検出されていて、どのくらいの量からが危険なのか。1回のレントゲンやCTスキャンでどの程度の量を浴びていて、普通の生活をしていて一年にどのくらいの放射能を浴びているのか。一人も答えられた人はいなかった。そういう客観的な情報がほとんど報道されていないから当然ではある。でも本当に調べる気になったら情報はあるのだけれど。
そして皆、「え、そんなに少ない数値しか出ていないの?!」と驚く。でも、全員が、今の数値の危険の少なさをちゃんと理解した(はず)の後に「でも危ないから夏に日本に帰っちゃいけない」と言う。1+1が2でなくなってしまっている。
日本の皆さんからは信じられないかも知れないが、ドイツ人は日本から放射能を含んだ雲がドイツに到達してドイツを汚染することを本気で心配している。それが現状では如何に非現実的かは報道せず、より過激な報道が部数を伸ばす資本主義の原則の下に、無意味を越えて悪意さえ感じる・・・パニックを起こそうという悪意・・・報道合戦が続いている。
悲しいことに日本でも、かなりの部数を誇るアエラという雑誌が同じ事をして、野田秀樹さんに引導を渡されたと読んだ。
(このエッセイではまだ触れないが、野田秀樹さんの「野田マップ」ホームページでの主張を皆さんご存じだろうか?言及はまだしませんがリンクは張ります。こちらです。「劇場の灯を消してはいけない」
もう一つは、ドイツの原発の是非と日本の震災の話は別の話だと言う事。
「これ幸い」という言葉を使いたくはないが、今のドイツの状況はこれだと思う。緑の党がバーデン・ヴュルテンベルク州で躍進したこと、ドイツの原発がなくなる方向に行きそうなこと、僕は個人的に喜ばしく思う。でも「フクシマは警告する」というキャッチフレーズは、くだらないし、間違っている。
福島は何も警告なんかしていない。日本はドイツの原発をなくすために被災したんじゃない。震災のことと原発の是非は全く別の問題だ。混ぜちゃいけない。東京電力や政府の判断、管理の責任を問うのも結構だが、今はその時じゃない。誰が一番身を削って原発の壊滅から日本を救おうとしていると思っているんだ。
ドイツには、いや、世界の誰にも、この震災を「利用」する権利なんてない。あるわけがない。大阪で「天の恵み」と言ってしまった人がかなりの社会的制裁を浴びた様だが、今ドイツでのデモでは「正義の仮面」を被った25万人が同じ事をやっていて、我々にもそれに参加せよと言う要請をしてくる。
ドイツのみんなにも、我々と同じように、地球という国の国民として、この球体の上に生きることを許された者として、この未曾有の天災からは「学ぶ」事しかできないと知って欲しい。我々人類が今より賢明になり、違う文化を打ち立てなくては、現状は変わらない。何年も計画停電しなくてはいけないだけの需要、供給関係が続く。今までの価値観にとらわれず、新しい価値観、新しい生活様式を生み出さなくてはいけないと思っている。枝野長官のこの言葉は本当に心に響きました。
僕個人として考えていること。ここまで書いて、やっぱり今日は書ききれないことがわかったので、詳しくは次のエッセイに書くことにします。でもちょっとだけ。
新自由主義が断罪されたことで一見違う方向に向かうかと思われた資本主義は、やっぱりその後継者を見つけられていない。そして資本主義の数字につながる成果をもとめて邁進する自然科学のあり方も。違う文化はここの革新から生まれるんじゃないだろうか。
そして、もう一つは「美」と「道徳」だと思う。「瓦礫の上にこそ劇場を」というのは芸術に関わる人間としての僕にとってきわめて根っこに近いところにある戒律ですが、前出のリンクで野田秀樹さんが極めて近い意見を持って下さっていることに感激しました。
命あっての文化なのはもちろんです。復興の前に、まずは一人での多くの被災者の方々が体の健康を取り戻すことが第一歩です。でも人間は体だけで出来ている訳じゃない。体が健康になっても魂や精神が健康にならなかったら本当の復興はあり得ない。でも、既にこの段階で避難所の皆さんから「ラジオで悲惨なニュースだけでなく、音楽を流して欲しい」という声が聞かれたことからもわかる様に、人間には美を求める「ココロの灯」を消すことなんか出来ないんです。
今は停電もあるし、自粛ムードが強いのも当然です。でもいつか切り替えなくちゃいけない。乙武さんの「でた!不謹慎厨!」の記事も読みました。
瓦礫の上にこそ劇場を。みなさん、是非劇場に足を運んで下さい。こういう時だからこそ、僕は演奏と演奏の質にこだわろうと思います。ココロまで瓦礫の山にしちゃいけない。
みんな、頑張りましょう。僕も頑張ります。
 
 
 
関連リンク:
チャリティーコンサートの報告記事(東テューリンゲン新聞)
チャリティーコンサート終了のご報告
チャリティーコンサートの詳細記事
東日本大震災チャリティーコンサート
宮廷歌手、称号授与関連の記事
ドイツ宮廷歌手の称号を授与されました