G.マーラー作曲/歌曲集「子供の不思議な角笛」
ゲラの劇場のフォワイエ・コンサートに二度目の出演。今回はマーラーの「子供の不思議な角笛」から数曲を歌いました。
他の曲の所でも同じ様なことを書いた気がしますが、この曲も長い間僕の「いつか歌いたい曲リスト」の中で暖められてきた曲たちです。
マーラーにとって、20代前半にすでに出会っていたこの「子供の不思議な角笛」は、いつも立ち戻ることになったインスピレーションの泉です。戦争、兵役、弾圧などが典型的なテーマになり、なんといってもマーラーの歌曲の多くに潜むモチーフ「別れと満たされない愛情」が核となっている点で特徴的と言えます。
テーマから来るのか、この歌曲集には音楽的にも独特な雰囲気があり、はじめは非常に魅力を感じると同時に取っつきにくさも感じていました。民謡的な響きを随所に持っていることもその印象を強めました。僕ら日本人の声楽家にとっては、自分が持っている文化と違う文化のものを歌っていくのが宿命とはいえ、民謡となると難易度はどうしても高まります。
その民謡のスタイルの成り立ちやリズムの意味合いなどに、もともとは全く予備知識がないわけです。インターナショナルなものではないわけですよね。でもこうして芸術作品として演奏される場合はある意味でインターナショナルな価値を持ってくる。聴き手はもちろんインターナショナルになるし、演奏する側としてはインターナショナルに通用する「風土性」の様なものを提供しなくてはならない。曲がインターナショナルだから、インターナショナルに通用している記譜法で読みとれるものを演奏していればいい、というわけには行かず、むしろ逆なわけです。
こういう意味では音楽芸術が国際語であるというのは間違いですね。隠語ですよね、はっきりいって。ただその隠語が国際的に価値があるという事なんだけど。
まぁとにかく、そういう敷居の高さが取っつきにくさをさらに強くしていた、という事がありました。
でも「いつか歌いたい」という気持ちはもちろん強く、いつも抱えているような感じでずっと来ました。
同じマーラーの「さすらう若人の歌」ほど超絶技巧を必要とするわけではないですが、広い音域と広いダイナミックレンジを必要とする点で、技術的にまず難しいから、練習曲としても価値がありました。
また、1曲の中で女性と男性が会話を交わすバラード風のものも少なくないので、音色的にも幅が広くないと歌えません。
今回のコンサートでは、2曲をソロ歌曲として、2曲を2重唱として、同僚のダヌータ・デプスキーというソプラノと歌いました。でもソロとして歌った2曲も構成としては二重唱になり得る曲だし、実際そう演奏されている例も多い。また2重唱にした2曲も本来はソロ歌曲です。
ソロで歌ったのは「歩哨の夜の歌」(Der Schildwache Nachtlied)と「美しき喇叭(ラッパ)の鳴るところ」(Wo die schoenen Trompeten blasen)の二曲。2重唱にしたのは「終わり、終わり!」(Aus, Aus!)と「塔の中で迫害を受けているものの歌」(Lied des Verfolgten im Turm)の二曲でした。
今回これを初めてステージにのせるので、去年10月にロンドンで我が師デヴィッド・ハーパーにレッスンを受けてきたときにこの曲も取り上げました。技術的にはっきり難しいのは、高音の弱声の表現と、ディミヌエンド(音をだんだん弱くしていく表現)です。「歩哨の夜の歌」には3小節から5小節に渡って同じ音でディミヌエンドをきかせるところが何カ所もあるし、最後のきかせどころは超高音でのピアニッシモ。「美しき喇叭の鳴るところ」では10小節にもまたがるピアニッシモの長いフレーズがあります。
ご存じの方も多いとは思いますが、クレッシェンド(音をだんだん強くしていく表現)は誰でも出来ます。もちろんそれに必要な技術というのはありますが、比較的簡単です。ディミヌエンドは難しいのです。目的地がはっきりしていてそこに向かって行きさえすればいいと言うのは気が楽なものですよね。でもだんだん音を弱くして行きつつも声の張りを失わず、美しいビブラートを保つというのは至難の業です。
デヴィッドの声楽メソッドは初めて彼に出会った94年の時点では僕にとって「えーっ?!」と何度も言わざるを得ないほど意外で新鮮なものだったのですが、彼は全てを理論として整然と説明してくれるので、感覚的と言うよりはわりと頭でっかちの嫌いがある僕にとっては、理論の理解を先にしてから実行に移せるという点で非常に相性が良いものでした。
ディミヌエンドに関しても、理論的には僕はすぐに理解して、一応は出来たのですが、極端に難しいディミヌエンドを含むこの「歩哨の夜の歌」についてはこの10月のレッスンでやっと完成を見た感じでした。
デヴィッドも「ナイス!」を連発していましたが、調子に乗って「じゃあエチュードとしてこのフレーズで何度もクレッシェンド、ディミヌエンドしてみて」と言うので仕方なくやってみましたが、まぁ大変ではあるものの出来るので自分でもびっくり。ぎりぎり演奏に使う技術のレベルをクリアするより、これくらい極端なエチュードも出来るようにした方が自信がつくもんですね。
高音での弱声は「さすらう若人の歌」でも頻繁に必要となる技術で、これについては一応納得していて、今回はよりソフトな弱声にトライしてそれも満足いくタッチにすることが出来ました。
でもなんと言っても今回のメインの技術的ハードルはこのディミヌエンドの本番での実行!如何にスムーズに本番でこの音を歌えるかにかなり自分としては賭けていました。結果はなかなか満足がいく出来で、とても良い気分で本番を終えました。
しかし声楽家ってのは変な商売ですよね。「たった一つの音をきれいに弱くする」ためにこれだけの労力、知力、年月を掛けなければならない。そしてこんな小さいコンサートでのその音一つの出来でそれにかけたエネルギーが報われる(と本人は感じる)のですからね。
音を小さくするなら、キーボードならヴォリュームのつまみをひねれば済むことなんだけど。
でもこうやってひとつずつ技術や感覚の引き出しを増やしていくことが絶対に必要なんですよね。
技術の話とは関係ないですが、ヴァイオリンの人がコルンゴルトのデュオの曲を弾いている間に、袖で待っているダヌータとの会話。
「あたし、今度生まれ変わったら絶対男の人になりたい」
「どうして?」
「この髪の毛と顔を演奏会用に準備するのにいったいどのくらいの時間を使うと思う?」
「なるほど」
「それにドレスだって毎回同じものを着るわけにいかないし。今回だって3つ違う作曲家のものを歌うんで、ショールの使い方を3種類ヴァリエーション持たしてるんだから」
「大変だね」
「男の人は本当に楽でうらやましい」
「でも男だとひげを剃らなくちゃならないよ」
「あなたの場合はかみそりで剃ってるの?それとも電動ひげそり?」
「電動ひげそり」
「どうして?」
「だって石鹸とかみそりで剃るのは面倒だもん」
「・・・・・・・・・・・」
(いったいお前は私が今話していた事をきいていたのか?!)と言わんばかりの非難の目つきでにらまれてしまった・・・。
「あんたね、生まれ変わったら女性だよ。絶対。」
「なんで?」
「あたしがそう決めた。少しは苦労しな!」
「・・・・・・・」
(2002.3.25)