「フィレンツェの悲劇」の立ち稽古

再び日本に戻ってから約1週間経ちました。日記がずっとアップできなくてごめんなさい。体調崩したりもしておりました。もう大体復活しましたが。
「フィレンツェの悲劇」の立ち稽古は順調(?)に進んでおります。どうして?がつくかというと、まぁ話すと長くなります。


今日発売の週刊新潮をごらんになった方もいらっしゃると思います。記事のタイトルは「歌劇で過激なドイツ産『SM舞台』」。
そう、今回の「フィレンツェの悲劇」の演出は、ドイツでも過激な演出である意味最先端を行くカロリーネ・グルーバー女史。僕もある程度覚悟していましたが、やっぱり過激な演出プランでありました。
僕は本来、舞台の幕が開く前に演出プランについてHPなどで書いてしまうのはあまり良いとは思わないのですが、今回はその過激さもあって、主催者の二期会としても少し前もって情報を出していきたいようです。それで今回の週刊新潮の記事にもなったのでしょう。僕のHPでも書いて欲しいという事なので、それなら話は別なので、ちょっと演出プランにも触れたいと思います。
新潮の記事、見出しにもあります様に、そう、SMなのです。サド・マゾですね。部屋にはありとあらゆる道具が並んでいます。
なぜそうなるかというと、この3人の出会いを、ある種計画されたものとして演出するからです。チャットか何かで、一人の裕福な男性が「夜の行為のために寛容なカップルを探して」いることを知ったシモーネとビアンカの夫婦が、この裕福な男性、グイド・バルディをそういった道具持参で訪れる、という設定なのです。
そして、3人でのプレイが始まるわけですが、まぁ色々出てきます。酒はもちろん、コカインあり、ビデオでの撮影プレイ、コスプレももちろん・・・。ああ、どうしてこうなるの・・・。
そうして、3人でなく、妻のビアンカとのプレイばかりを好んで挙げ句の果てに翌日にビアンカとだけの逢い引きを企てるグイドに対するシモーネの怒りが殺意に変わる、という事になってきます。
スイスで実際にあった事件で、ある銀行家が自宅で恋人に射殺される、しかもラテックスのSMコスチュームで、というのがあったそうです。普段、普通に生活している、人間が夜は何をやっているのかわかったもんじゃないという、そのギャップが欲しいようです。
似たケースで、僕のベルリンの友人の上司の話があります。これはドイツ全土を揺るがした事件で日本でも報道されたんじゃないでしょうか。ジーメンスというドイツの大企業ですが、その友人の直接の上司で、毎日の様に一緒に仕事をしていた人が、急に仕事に来なくなった。と思ったら警察が大勢でやってきて、大規模な取り調べがあったと。
その上司は、インターネットで自分の肉を目の前で食べてくれる人を探し出し、それを実行して死んでいったそうです。そういう行為の中でしか性的満足感を得られない人だったということです。
この話をカロリーネにしたら、「えっ、まさか、あのローテンブルクの事件?」とすぐに反応があるほど有名な事件でした。これもまわりの同僚は、当人のそういう嗜好には全く気づかなかったようです。ヒュー・グラントがこの話を映画化したいと言っているという話も聞きました。
話がそれた。
僕にとっては、作品の成立経緯と関係ない設定を持ってこられるのは大変に難しいんだけれども、演出家によってこういう枠を用意されたらやらないわけに行かない。稽古場で「いや、僕はそういうのやりたくない」と言って、結果的に中途半端なものを作り上げると、結局割を食うのは劇場に足を運んで下さるお客様です。僕が見たハンブルクのナブッコは正にそういう上演だった。出演者に話を聞いても演出家カロリーネ・グルーバーへの反感しか聞こえてこない。カロリーネにきいても、稽古期間中ずっと、歌手の非協力的な態度に悩まされたそうです。
それにやってみないと、そのプランの本当の価値というのは判断し得ないんですね。プロフェッショナルな歌手としては、このプロジェクトに参加した以上はやり遂げなくてはいけない。
まぁ個人的にはもちろん気が進みません。いきなり頭から、妻に犬の首輪をつけて引っ張り回すところから始まるんですからね・・・。
僕が今稽古場で腐心しているのは、そういう異常な環境、状況の中でも、このシモーネの持つ狂気、嫉妬、殺意、抑圧された感情を露わにすることです。こういう3人の性的関係を目的とした場では、嫉妬というのはもはや危険性を失いがちなんだけれども、その辺をなんとか原作の意図の場所につなぎ止めようと努力しています。
演出のカロリーネは、幸いそういう過激なプランにあっても、僕のオペラ歌手としての歌唱と演技をとても高く買ってくれていて、細かい芝居はつけずに殆ど僕に任せているくらいです。ここで、僕が彼女のプランに立ち入るチャンスが生まれるわけです。昨日の稽古で特に強調したんだけど、その異常な状況にあって、どこが本当にシモーネが傷ついている場所なのかをはっきりさせたいと要請して、彼女の方も納得してくれました。
まぁ一つ言えるのは、新潮の記事でカロリーネも言っているけど、原作のオスカー・ワイルドの世界は、かなり倒錯的で、異常な感覚の世界です。グイドの死体の上でシモーネとビアンカが激しく口づけを交わすというラスト・シーンがそれを良く象徴しています。その倒錯性がこの演出の中でうまくでてくれればいいのですが。
写真は稽古風景です。

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