ベルリン留学生日記-3

さて、皆さん良くご存じのこととは思いますが、ベルリンにはオペラの劇場が3つもあります。旧東側のシュターツオパー、コミッシェオパー、旧西側のドイチェオパーの三つです。


他にもミュージカルやオペレッタを専門にしているメトロポール劇場、貸し小屋のヘッベル劇場などがあるようですが、いわゆるオペラハウスはこの3つと言ってさしつかえないでしょう。メトロポールは最近ルネ・コロ主演の微笑みの国のプレミエがあり話題になりました。傾きかけているこの劇場のインテンダントとしてルネ・コロは頑張っているようです。3月の末にドイチェオパーのタンホイザーをキャンセルしたのは、このメトロポールの微笑みの国のプレミエに向けての事という噂を聞きました。僕も出かけたこの公演では、さすがにルネ・コロのタンホイザーとあって珍しく満席だったのですが、残念な思いをしました。タンホイザーをお休みした甲斐あってか、メトロポールでの微笑みの国はとても評判が良く、プレミエの次の日の新聞の文化面には中国の皇子スー・ホンを歌うルネ・コロの写真が大きく載りました。
「オペラが毎晩、しかも3つの劇場でよりどりみどり!」これが、とりあえずベルリンに来てすぐの僕にとっては興味の対象でした。
ベルリン芸術大学に僕は今在籍してるわけですが、留学準備に入った頃、年齢制限の関係ですぐ試験を受けることを要求されてしまいました。そんなわけで入試を昨年2月に受けに来たとき(ナクソスの稽古がつまった来た頃です。関係者の皆様ご迷惑をおかけしました・・・)、試験のためのたった4日間の滞在でしたが、せっかく来たのだからと思って、コミシェオパーでボエームを、ドイチェオパーで仮面舞踏会をみました。
コミシェオパーについては、観たことはなかったものの、どの様なあり方で今日に至ったのかは何となく読んだり聞いたりしておりましたので、興味は持っておりましたが、日本公演は高すぎてみられませんでした。ボエームを観て、何よりまず良く稽古されていること、考え抜かれた演出に感心したものです。演劇的クオリティにこだわるからか、コミシェオパーでは、キャスティングされた歌手のキャンセルによって代役を立てるという事はなく、演目が変わります。そのパートを歌ったことがある歌手でも、コミシェオパーの演出できちんと稽古した歌手でなければ舞台にのせないというポリシーがあるのでしょう。
ドイツ語でボエームを見るというのはなんだか変な気がしましたが、歌っている人が本当にわかっている言葉で歌われているだけあって、意外な事にとても言葉の説得力がありました。
ドイツ人はイタリアへの強い憧れを持っていると読んだことがありましたが、これは本当にそうですね。それと同時に、軽蔑まで行かなくとも、軽い優等意識みたいなものも持っているようです。何しろ、イタリア料理の店が多い。中華もなかなか多いですが、比較にならないくらいイタリア料理の店は多いです。見るからに「ドイツ料理」という店はまだそれほど見たことがないのに。オペラも、イタリアのものは皆大好きです。オペラハウスのレパートリーとしても、イタリアものの占める重要度はかなりのものです。
ドイチェオパーの仮面舞踏会に関してはイタリア語上演なのでドイツ語の字幕が出ていて、それにまず驚いたりしました。知っている歌手がここでは何人か聞けて、ニール・シコフのリッカルド、ヴォルフガング・ブレンデルのレナートを楽しみにして出かけました。
ゲッツ・フリードリヒの演出も手堅いもので楽しみましたが、最後に印象に残ったのは、シコフ以外の歌手のイタリア語の発音のいい加減さでした。これは僕にとっても意外で、そういう事があるという事自体と、それが一番印象に残ってしまうほど強い影響力を持っていること、両方が意外でした。
日本人にとってはドイツ語もイタリア語もフランス語もロシア語も、オペラで使うほとんどの言葉は外国語なわけですが、例えばイタリア語でいえば、ウバルド・ガルディーニ先生というイタリアオペラの生き字引のような人が日本に住んでいらして歌手の教育にあたっている、ということがあります。ガルディーニ先生は今はまた芸大でも教えていらっしゃると思いますが、ドミンゴ、フレーニを初めとして、イタリアオペラの大歌手のほとんどはその薫陶を受けているというスゴイ方でして、現代のイタリアでは学べないというイタリア語の発音法、発語法、韻律など、オペラに必要なことは全て教えて下さいます。彼は「イタリア語を喋れるようになる必要はない」といいます。舞台語としてのイタリア語を会得すれば良いということですね。キリ・テ・カナワはイタリア語を喋れないけれど、稽古では相手役のイタリア人歌手の発音に文句をつけるそうです。
語学として、日本人はヨーロッパの人達よりも外国語への距離がある分、舞台語としてのトレーニングは義務感を持ってやっているような気がします。ヨーロッパの人達は陸続きの外国の言葉だからか、何となく意味が分かるからか、歌う際に特別の準備をさほどしないということなのでしょうか。
日本人が「歌う」という行為に対して構えがあるということも逆に言えそうですが。
(1996.4/2001.10.30掲載)

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