専属歌手であること 2

「専属歌手であること」の一つ目のエッセイでは、主にレパートリーシステムのこと、本番が多くあることで歌手としては恩恵があることを書きました。歌手としての仕事内容というか、仕事のサイクルや色々なバランスが違うだけでずいぶん仕事の質や内容に影響を与えるものだと驚きます。


先日、劇場のオーケストラの定期公演でフォーレのレクイエムのバリトンソロを歌いました。うちのオーケストラのシンフォニーコンサートは同じプログラムで3日あり、2度がゲラの劇場内にあるコンサートホールで、1度アルテンブルクの劇場のオペラ用ホールで演奏されます。
このゲラのコンサートホールはなかなか美しいホールで、僕はとても気に入っています。もっとも音響はちょっと癖があるので気をつけなければいけないのですが。僕がオーディションを受けたのもこのホールでした。
オーディションの時はピアノ伴奏だったので特に問題ないのですが、オーケストラと一緒の時は歌声にとって有利な音響ではないのです。特に去年の年末に第九を歌ったときなどはオーケストラの音の洪水の溺れんばかりになった覚えがあります。
オペラの作品のオーケストラ合わせもこのホールでやることがたびたびあります。このときは本番でオペラを歌うホールとこのコンサートホールの音響がまったく違うので別の意味で気をつけなければいけません。僕はよく稽古を録音して聞いてみるのですが、録音するときはなおさらです。
オペラの本番を歌うオペラ専用のホールは、それほど残響が多いホールではありません。でもオーケストラはオペラ上演の際はオーケストラピットに入るので、自然と音量は抑えられることになります。だからオーケストラが舞台の上に乗っている時よりはオケの音が声にかぶる心配は減ります。
コンサートホールの音響はオケがどうしても響きやすいので、コンサートホールでのオケ合わせの録音を聴いてオケの音が声より勝っているように感じ、そのバランスを真に受けて、声を張り上げたり、弱声で歌うつもりだったところをやはりもうちょっと強めに歌おうなんて考え始めると、せっかく稽古で緻密に作った表現が台無しになってしまうこともあります。オペラの専用ホールで実際にオケと合わせてみると今度はピットのは行ったオケの音量が小さくて、全然思っていたのと結果が違うということになりかねないのです。
コンサートホールで本番がある演奏会の練習がコンサートホールで行われたときは、当然事情はまた変わってきます。後ろの反響番から遠い位置で歌う歌手に不利な条件は本番でも練習でも同じです。ただ、どこのホールでもそうですが、お客さんが入ると響きはもう一段階落ち着きます。これも考えに入れませんとね。
お客様がいないときと本番の時の音響の違いなど、普遍的な法則はありますし、経験で色々わかってくるものですが、やはり実際に歌ってみないとわからないことが多いです。東京で仕事をしていたときは、歌ったことのないホールで本番があると、やはり神経質になってホールでの練習時間が確保できるかとか、色々考えなくてはいけないことが出てきます。(ちなみに僕が歌った中で一番歌いにくかった東京のホールは池袋の芸術劇場の中ホールでした。舞台に自分の声が全然返ってこないのです。あの時は本当に驚きました。)
そういうホールの癖も、何度も何度も同じホールで歌ってくれば、頭で考えるまでもなく、体が覚えてきます。そうなると不確定要素が減って音楽に集中できる度合いも高まるというわけです。
専属歌手として同じホールで何度も歌っていると、その「慣れ」が声を如何に助けるかが実感できてきます。歌いやすい音響かどうかと別に、その音響と仲良しになるという感じでしょうか。それにドイツの劇場は大体においてサイズが日本のホールほど大きくないし、日本の大きなホールでのように、目の前に広がる巨大な客席空間と歌いにくい音響から来るプレッシャーで自滅すると言うことも少ないんじゃないでしょうか。うちの劇場のコンサートホールは900席弱、オペラの専用ホールは約600席です。新国立劇場が出来たときにオペラのホールが1800では少ないという論議が起きたくらいですから、こんなホールは東京にはありませんね。もちろん採算の問題があって、ドイツのオペラハウスが自治体からの援助約80%という予算だからこういう小さな劇場がやっていけるのですが。もっとも今は不況で、特にこのテューリンゲン州は文化予算がどんどん削られてきていて、もはや潤沢とは言えない援助の額になってきているようですが。
僕の大学時代からの恩師である原田茂生先生は、ドイツの劇場の音響の中で学ぶことは多いはずだと良く言っておられました。今、僕のこの原田先生の言葉をまさに実感しているわけです。最初にゲラのコンサートホールでおけ合わせをしたときはリゴレットのアリアを怒鳴りまくってしまった覚えがありますが、先日のフォーレでは頭でわかっているこのホールの情報がたすけて、理性的に演奏をすることが出来ました。まだリアルタイムの感覚と実際の効果のギャップを頭で計算しないと出来ないですけども。

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言ってみれば、音響が声を育てると言うことでしょう。オペラというジャンルは総合芸術だけあって、オーケストラや歌い手、演出など各チームがうまく妥協をしあって成立しているものです。だからその各分野の狭間で思わぬ事も起きやすいし、不確定要素をある程度かかけて本番を乗り切らねばならないことが多くあります。そういうときに声と音響の関係という、歌い手の精神状態に非常に大きな影響を与えるファクターが確定してくるのは公演全体レベルで見ても大きなプラス面です。
 
専属歌手として歌うことの大きなメリットの一つが、この定まった音響環境で歌えることだと思っています。
 
専属歌手としておらが劇場で毎度毎度歌うということは、音響の点でもいいのですが、もう一つ、「劇場が近所」になると言うこともあります。ドイツは職場と住居が基本的に30分以内という事が原則だと本で読んだことがありますが、僕の家から劇場は徒歩で15分。勝手も分かっているからコンサートの時にはそれほど前に行く必要もありませんし、燕尾服の上にコートを着て出かけ、終演後もそのまま帰ってこられます。うちから燕尾服を着て出かけて、歌ってそのまま帰って来るという芸当は東京では出来ませんね。
(2001.12.6)

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