2003 年の1・2月、新国立劇場におけるR.シュトラウスのオペラ「アラベラ」でマンドリカ役を歌うことになりました。ちょっと表紙のメッセージや掲示板にも書いたのですが、この役は長い間僕の「夢の役」だったので、今回この役を歌えることになって本当に嬉しく思っています。
ご存じの通り、僕はアルテンブルク−ゲラ市立歌劇場と専属歌手という形で契約を結んで歌っています。この「専属歌手」というやりかたは、今のところ日本にはありませんから、歌手の生活ということでも、今の僕の生活は日本で歌っていた頃とずいぶん違っています。(これはまたこれを主なテーマにしてエッセイを書いていますので、そちらを読んでいただけると嬉しいです)
基本的に、このゲラの劇場にスケジュールは全て預ける形になるので、勝手に他のところで歌う契約を取ってくるわけに行きません。僕が所属するゲラの劇場から「客演休暇」の許可をもらわなければ他の劇場で歌うことが出来ないのです。この客演休暇の日数は、契約するときの条件として交渉するテーマにもなります。ギャランティと同じく契約を結ぶ上で重要なポイントです。
僕の場合、ゲラの劇場は、日本への客演に対してかなり寛容に対処してくれています。今回はまず12月に同じく新国立劇場での「ナクソス島のアリアドネ」への出演がありますから、これの分をまず申請して許可をもらい、その後年末の第九のために日本滞在を伸ばす許可をもらいました。これだけでもかなりの期間です。それに加えて今回は新国立劇場からアラベラのお話をいただいたので、僕は最初は「無理だろうなぁ」と思っていたのですが、何と僕の出演するべきゲラでの本番の日を変更してまで、アラベラへの出演を許可してくれたのです。これには本当に驚きました。
僕は決して控えめな人間ではないけれど、この劇場での事は何もかも初めてで勝手が分かりませんから、ゲラの劇場ではとにかく他の歌手がどの様にやっているのか様子を見ながらやっています。今回のことも決してごり押ししたのではないのです。大体ドイツ人の「ごり押し度」には、そうそう勝てるもんじゃないですし。
でも、こうして僕を日本へ送り出してくれる劇場の首脳陣には本当に感謝しています。その分、舞台でその厚意に報いるようにしなくちゃね。
というわけで話をいただいてから、最終的に出演が決まるまでかなり時間がかかってしまいましたが、何とか出演がきまり喜んでいるわけです。
僕はこのマンドリカという役には、ミュンヘン州立劇場の日本公演で出会いました。僕が大学4年生だったかな。この公演の安いチケットを買うために1週間前からならんで列を作り、交代で徹夜の番をして列を守ってチケットを手に入れました。ちょうど同じ頃にミラノ・スカラ座の日本公演チケット売り出しも重なって、かなり体力を消耗した覚えがあります。
このときのミュンヘンオペラの演目は、ドン・ジョヴァンニ、アラベラ、ニュルンベルクのマイスタージンガーの3本立てでした。総監督はヴォルフガング・サヴァリッシュ。ミュンヘンが大事にしているモーツァルト、ヴァーグナー、R.シュトラウスの作品を持ってきたわけです。3つのうち、マイスタージンガーは合唱がたくさん必要なので、当時芸大の学生がかり出されて出演しました。僕も「靴屋」として出演したのです。他の二演目、アラベラとドン・ジョヴァンニはチケットを買って見ました。
アラベラですが僕が劇場で見た公演は、アラベラがアンナ・トモワ・シントウ、マンドリカがトーマス・アレンでしたが、違う方の組の公演はライブ録画されて NHKで放映されました。こちらの組はアラベラが今は亡きルチア・ポップ、マンドリカがベルント・ヴァイクルという組み合わせ。
大富豪のマンドリカは伯父の友人のヴァルトナーから伯父宛に送られてきた手紙に同封されていたアラベラの写真に心を奪われ、求婚するためにウィーンに赴きます。言い寄ってくる男はいても自分にとって「ふさわしい相手」ではないと、そのふさわしい相手の出現を心待ちにしていたアラベラとは一目で心が通じ合い、婚約となりますが、没落貴族で金欠のヴァルトナーはアラベラの妹ズデンカを男として育てていて、このズデンカがよかれと思ってやったことが騒動になりあやうく婚約破棄しかけますが、最後はすべてがはっきりしてハッピーエンド。他のあるオペラと筋が酷似しているのですが、これについては別のエッセイに書きます。
とにかく素晴らしくて、「このオペラ、いつか絶対に歌ったる」と勝手に決意しました。しかしこの公演が日本初演であるアラベラ。物語としてはオペレッタのような恋愛のすれ違いで親しみやすいとはいえ、とにかく演奏がむずかしい。ドイツ人にとってもR.シュトラウスは言葉さばきが大変なのです。そこに加えてこのアラベラではオーケストレーションがものすごく厚くて、かなりドラマティックな声を必要とします。体力的に日本人向けのオペラではないかも知れない。
勝手に「いつか歌うぞ」と決意したところで、公演自体が日本で企画されない限りは実現しませんよね。
で、僕は大学院の修士課程修了の修士演奏でアラベラを取り上げる事を思いつきました。一緒に終了するソプラノ二人に声をかけて3人分の時間を使えば、全体の半分くらいは演奏できることがわかりました。よし。まずはここでやっておくべし。
その二人のソプラノというのは、二期会の公演でも知られている松田昌恵さん(アラベラ)と、ドイツで今は主にドイツリートを中心に演奏活動をしている松本理佐子(ズデンカ)さん。そして、助演の先生方の顔ぶれがまた豪華でした!マッテオに大野徹也さん、ヴァルトナーに佐藤誠一郎さん、アデライーデに青山智恵子さんというキャスティング。それに指揮が大町陽一郎先生、演出が直井研二先生、ピアノが森島英子先生。ため息がでるような豪華さでしょ。客席がせいぜい50くらいの芸大オペラ科のスタジオで演奏するにはもったいないくらいでした。
このときは2幕のアラベラとの長大な二重唱は時間の都合で出来ませんでしたが、重要なシーンは大体網羅しました。いやぁ楽しかったなぁ。
この頃はあまりそういうことを考える頭がなかったのですが、実はこのマンドリカという役、僕の声には若干重い。アラベラが歌うときはいつもオーケストレーションが薄いのですが、マンドリカはまるで「オケを背負って」出てくるような感じで、いつもオケが厚いんです。オケをしっかり抜けていき、しかもこのホフマンスタール(台本作家)の流麗かつ複雑で膨大なドイツ語の発語を万全にやらないといけない。これは本当に大変な役です。
そして僕が文化庁のオペラ研修所に在籍している頃に、指揮者の若杉弘先生の特別講座が行われることになりました。そこで僕に振り分けられたのが、このアラベラとマンドリカの二重唱!もう大喜びで歌いましたっけ。これが若杉弘マエストロと僕の音楽的出会いでした。
僕はこの特別講座のために慌てて準備したのではなくて、この曲は体に入っていたのでもちろん曲のイメージもはっきりしていました。ここで若杉先生にとても誉めていただいて、このあと若杉先生とは何度もご一緒させていただくことになりました。そして今回の新国立劇場のアラベラも若杉先生です!
若杉先生の素晴らしいところは、大御所というか、泣く子も黙るマエストロ若杉であるにもかかわらず、歌い手に対してご自分の音楽を無理やり押しつけることは決してなさらない事です。歌い手の呼吸を読んでいつも「伴奏」をして下さいます。それでいて結果的に出てくる演奏は若杉先生の音楽になっているという「若杉マジック」なのです。
これこそは、若杉先生もご自身でおっしゃっていることですが、サヴァリッシュ先生がまさになさっていることなのです。若杉先生はミュンヘンのサヴァリッシュ先生のもとで修行された経験をお持ちなのです。
ミュンヘン州立オペラのアラベラ公演に先立って、サヴァリッシュ先生が芸大で行った講義を聴いたのですが、これが素晴らしい内容でした。タイトルは「R.シュトラウスのオペラと調性」というものでしたが、これは今まで僕のR.シュトラウス作品への愛を支える一つの柱です。
R.シュトラウスが、オペラの中の雰囲気、テーマ、状況などによって、「調性」を使い分けていたという事です。「真実の愛」はホ長調、「素朴さ」はト長調、「厳粛さ」は変ニ長調、という具合ですが、これはR.シュトラウスのオペラを解釈する上でとても大きな助けになります。(偶然かも知れませんが、ヴァーグナーの「さまよえるオランダ人」のオランダ人とゼンタの長大な二重唱もホ長調です。これとの絡みもまた書きますね)
思い入ればかりがたまっていって、舞台の上で歌えるチャンスがなかったこのマンドリカ役。僕が留学中の98年に新国立劇場と二期会の共催公演として上演されました。僕はベルリン音大の学生の頃。「あーあ、いまやっちゃったら、次にアラベラなんて珍しいオペラが上演されるのは何十年も先だろうなぁ・・・」もう僕が日本でマンドリカを歌うチャンスは消えたと落胆していたのですが、その再演で声がかかるとは!頭でっかちになるのでなく、思い入れを舞台で形にしなくちゃね。
(2002.6.15)
写真は僕のアラベラの楽譜。左の方にあるのが指揮者ヴォルフガング・サヴァリッシュ先生のサインです。うふふ。