A. v. Zemlinsky
フィレンツェの悲劇(ツェムリンスキー)シモーネ役
一昨日、「フィレンツェの悲劇」のプレミエを終えました。「無事に終えた」以上の結果を出したと言っていいのでしょう。評判も大変良かったし、この作品に知り合えたこと、これを演奏することが出来たことを大変嬉しく思います。それにこの無茶苦茶なスケジュールのなかで良くやったと自分を誉めてやりたいです。日記などにも書いたのですが、立ち稽古はたったの5回。この難しい作品でね。
しかもさらに驚きなのは、この5回の立ち稽古を終える時点で、指揮者との音楽稽古が一度もなかったのです。彼のスケジュールのせいもあるし、僕が日本で「ナクソス島のアリアドネ」だけじゃなくて「アラベッラ」まで歌ってきたせいもあります。でももちろんそれだけじゃありません。今の劇場の音楽スタッフの状況がひどいのです。
僕が日本から戻った翌日に、もうこの「フィレンツェの悲劇」の立ち稽古が始まりました。この時点で僕には当然、楽譜が読めているだけでなく、暗譜してあり、しかもキャラクターの理解も含めて台本を読み込んであることが要求されます。
僕は日本で結局この作品をピアニストと一緒に練習できなかったので、うちで一人で楽譜をにらむと言うのが主な準備方法になりました。このスケジュール的な問題はすでに前からはっきりしていたので、10月の時点でコレテペティトアのクラウディアに頼んで、もう個人稽古ははじめていました。僕自身の勉強はもう7月からやっていましたけど。僕は譜面を読むのが早い方じゃないものですから。
それでもこの後期ロマン派の、R.シュトラウスをさらに派手にしたようなこの音楽をピアニスト無しで暗譜するのは至難の業でした。アラベラの立ち稽古の時期は、もっぱら開いて見る楽譜はこっちの「フィレンツェの悲劇」のほうでしたね。通勤の電車の中とか、休憩とか。
それにオスカー・ワイルド原作のこの倒錯の世界と言うこともあるのか、ドイツ語の文法が古かったりして覚えにくいこと!東京で学生やっていた頃は、とにかく意味が分かっていようがいまいが歌って体にたたき込むようにして覚えていたんですが、今はやはりドイツ語文化の中にどっぷり浸かって生活していますから、理解しにくい構文や頭にすっと入ってこないドイツ語は暗譜もできないのです。これはアラベラでもあったことでした。ホフマンスタールは決してわかりにくいドイツ語を書く人ではないと思うけど、あれだけテキストが多いと、自分が日常で使ったことのない文法が使われているフレーズは体に入ってくるのに時間がかかりました。
まぁ死にものぐるいでなんとか暗譜して、飛行機のなかでもずっと楽譜をみていて、ゲラに戻った翌日、時差ボケがぼけぼけの状態で立ち稽古開始。演出家のマティアス・オルダーグとは、コルンゴルトの「死の都市」以来、二度目の仕事です。オルダーグは仕事が早い人で、また実際的な稽古をする人なので、そういう意味ではこのシチュエーションでは良かった。
でも、指揮者との稽古はなかったし、これを指揮するGMDのガブリエル・フェルツは他の仕事でしばらく来られないと言う。この難しい音楽の立ち稽古をつけるときに指揮者がいないというのは致命的です。まず、キューをもらわないと歌い出しがわからないところがほとんどだし、ピアニストは全然作品理解していないからめちゃくちゃなテンポで弾くし。
うちの劇場には稽古ピアニスト(コレペティトア)が3人いるのですが、そのうち、この作品を弾けるのはクラウディア・ゲバウアーという人一人だけなのです。彼女が稽古で弾いてくれればまだ僕も歌えるんだけど、他の二人は全くお話にならない。というか、本来その3人のピアニストの中でいちばん責任がある立場のM・S氏は一度も稽古に来なかった。彼は何かの時には稽古ピアニストのトップとしてフォローをしなければいけない立場なのに、真っ先にこの「フィレンツェの悲劇」から逃げ出したのです。全くひどい話だ。
彼は責任者だけあって稽古の振り分けをする立場なので、自分は比較的簡単なジャンニ・スキッキの稽古だけを弾くように割り振ってしまったのです。このS氏の無責任さは何度か劇場のなかでも問題になっていて、ルチアの立ち稽古で無茶苦茶な指揮をしたときにはさすがに僕もキレました。
そのときは指揮者が6つ振りでやると決めたところを3つ振りで振った(この表現はちょっと専門的ですね。用語集にこれの説明を入れておかなくちゃ。)ので、僕が「そこは6つ振りですよ」と言ったら、S氏は「そんな、ここを6つで振るなんて、まるで音大の学生みたいだ。そんな幼稚なことは出来ない」なんて言い出すもんだから、僕は地団駄踏んで「指揮者が6つに振ると決めたならそこは6つなんだっ!!!そう振ってもらわなきゃ歌えないだろうにっ!!!」と叫んだら、稽古場が凍ってしまった。僕は一応この劇場では一番従順な歌手で通っているので、同僚が「何か悪いものでも食べたの?」とでも言いたげな顔で見ていました・・・。
話がそれた。ルチアの時のことは置いておいて、「フィレンツェの悲劇」の話に戻ります。
それで、もう一人のピアニストのU・Pさんはえらく頻繁に体調を悪くしてあまり稽古に来ない。最近は彼女、教会音楽に興味が行っていて、なにやら免許を取るために勉強しているのです。そっちばっかりやっていてオペラの職場はお留守になっている。その上彼女の旦那さんが劇場のなかでかなり責任ある地位にいるので、彼の擁護もあって結構わがままが通っちゃっているんですよねー。
つまりはクラウディアが一番割を喰うわけです。可愛そうなクラウディア。でも彼女が僕が音楽スタッフの中でいちばん信頼を置いている人物なので、まぁ彼女と稽古ができることは僕にとってはプラスなんですけども。
とはいえ、そういうとんでもない音楽スタッフの状況があって、指揮者との音楽稽古をしないままに立ち稽古が進んでいくことになりました。
で、その指揮者がいなくて、クラウディアでないピアニストが弾いた稽古はもうカオスになってしまって、あれだけ無茶苦茶だとじぇんじぇん歌えません、と言う箇所も出てきて、そうすると演出家は僕が覚えてないから歌えないと勘違いして「ちゃんと音楽スタッフの方で準備してきてくれ」とか言い出すし、その上でピアニストも「こんな難しいもの指揮者無しで弾けるわけがない」とか怒り出すし、僕もキレる寸前まで行きました。
で、2日目の稽古は、クラウディアが弾いたので、指揮はいないとは言えなんとか音楽が形にはなった。でも3日目に負担がかかりすぎたクラウディアが体調を崩して病欠・・・。
この作品は55分くらいの1幕もので、短いのですが、僕の歌うシモーネ役は休み無く歌っていて、作品の90%を一人で歌っているという感じなのです。それにオケが厚くて、GMDのガブリエルによればR.シュトラウスの「アラベッラ」やコルンゴルトの「死の都市」よりも厚いオーケストレーションだとか。つまり常に体の共鳴を振るに使い切る声で歌っていないと声がオケを抜けて客席に届かないのです。他のところに書いたけれど、「サロメ」のヨハナーンみたいな感じです。でもあの勢いで、ヨハナーンの5倍以上の量を歌うんですが。
芝居的にも僕が作品をすすめていく唯一の人間なので、僕の声楽的、芝居的集中力が切れたらこの作品は本当に全く機能しません。
去年、名古屋フィルの定期演奏会で、演奏会形式で上演されたそうで、その時テノールのGuido役を歌った吉田浩之さんと、年末の第九でご一緒したのでちょっとお話をうかがったのですが「いやー、シモーネは大変だよ、ほんと。えっ、ジャンニ・スキッキと両方歌う?!無理無理。」ってな話で。このときは木村俊光さんがシモーネ役をお歌いになったそうです。
そう、僕は当初、シモーネ役とジャンニ・スキッキ役と両方を歌う予定になっていたのですが、僕がまだアラベラの稽古を東京でしている1月中にスキッキの立ち稽古をどうしてもはじめたいと演出家が希望しているとのことで、そのプランは変更になりました。今考えると変更になって良かったかも。あの稽古状況じゃね。充分に準備できる環境だったら両方やってみたかったけど。
そんな大変な役なんですが、このような劣悪な稽古状況でした。とにかく稽古は始まり、さらに続いた。ピアニストがいないのにどうやって続けて稽古したかって?3日目からやっと参加できることになっていた指揮のガブリエルが自ら弾いたのです。あのピアニスティックに無茶苦茶難しいものをなんとか弾いていたから大したものです。でももちろんピアノをさらって暮らしているわけではないから、僕が音を取るために絶対に不可欠な音をとばしたり間違えたりは日常茶飯事。これまた僕の神経をすり減らしてくれました。
でもね、さらに問題がいくつか。
オルダーグは才能ある演出家だと思うんですが、僕の感覚からすると、音楽をあまり演出に生かさない人なんですね。これはドイツの演出家全体に言える傾向かも知れないけど、オペラの音楽を映画音楽か効果音くらいにしかとらえていなくて、音楽のキャラクターを芝居のキャラクターに変換できないのです。まぁ敢えてしないのかも知れないけど、僕にはそうは思えない。
それと同じ根からきていると思うんですが、芝居の内容も、ストレートプレイみたいにつける傾向がある。オケが特に厚くてどうしても僕が前に向かって歌わなくちゃ全然声が客席に届かないような箇所で斜め後ろに向かって歌わせようとしたり、アンサンブル的に難しくて指揮者とのコンタクトを絶対にはずせないところで、後方にいるテノールとの視線のコンタクトを要求したり。何度か言われたとおりにやろうと努力したけど、この少ない稽古回数と言うこともあるし、僕の集中力を、こういうあまり劇的効果の大きくない部分で使い果たしたくなかったので抗議して変えてもらいました。これも結構手間だった。
それと、今回のオルダーグの演出では、台本通りの展開にならず、結構時代設定を含めて大きく「読み替え」がしてあるのです。台本では「馬に乗ってくる」と言う表現があったり、剣を持ち歩いている事からも時代がかなり前な事は客様にもはっきりわかるんですが、僕はアタッシュケースを持って帰ってくるし、ピストルは出てくるわ、僕のカバンからは女性用の絹の下着の見本が沢山出てくるわ、という感じでして。僕の役シモーネが商人であるのは台本にある設定ですが、ここでは具体的に女性用の高級下着のセールスマンなのです。
ちょっとあらすじを説明しましょう。
シモーネが仕事から帰ってくると、妻のビアンカだけでなく、公爵の息子グイド・バルディが家にいる。貴族が妻の友人として我が家にきていることを知ると、シモーネは奇妙なくらい慇懃な態度で歓迎し、自分が扱っている衣服をグイドに見せて売りつけます。紹介したとおり、シモーネは一人で歌い続けるわけで、とにかくべらべらしゃべりまくる感じで、自分を卑下し、また妻のビアンカを叱りつけ嘲笑し、グイドをおだてながら自分の扱っている品を売りつけるのですが、その過程でグイドが持ってきていたリュートを見つけ、弾いてくれと嘆願したりもします。ここでふいにシモーネは、一介の商人でコツコツと日々の暮らしを積み重ねていくしか能のない自分と、貴族で容姿端麗でリュートなど音楽もたしなみ宮廷では女性に取り囲まれて暮らしているグイドの決定的な差を自ら発見してしまうことにもなり、それによって傷つきもし、またその決定的な差こそが我が家の留守を守る妻ビアンカのもとにグイドを導くことになったと悟るわけです。この事に打ちのめされこれが殺意に代わり、帰ろうとしたグイドを挑発して決闘に誘い、最後にはグイドを殺してしまいます。
決闘の間ビアンカはグイドに「あの人(シモーネ)を殺して!」と叫び続けるのですが、グイドが息絶え、シモーネが「次はお前の番だ」とビアンカに寄っていくと、なんとビアンカは「なぜあなたがそんなに強いと、私に言ってくれなかったの?」(「甘い感動とともに」とト書きにある)と言い、シモーネは「なぜお前がそんなに美しいと、私に言ってくれなかったのだ?」と言って、死体の横で厚い抱擁と口づけを交わす、という倒錯的な結末を迎えます。
設定を若干変えることは、まぁそれほど僕にとっては問題ではなかった。でもオルダーグの演出では最後にシモーネも自殺するのです。僕はここで彼が死んでしまったら全然この作品の倒錯性が出てこないように思うのです。
かような僕の作品の捉え方とオルダーグの捉え方のギャップを現実的に埋める作業が、かなり精神的にはきつかったです。
「彼にはもう生きていく希望はない」とオルダーグは言うのですが、僕は別に希望がない人が皆自殺するとは思えないし、そこで、オスカー・ワイルドが死体の横で、しかも自分がその直前まで情事を共にした男性が死んでいる横でビアンカは自分の夫の魅力を再発見して口づけをするとト書きに書いた、この意味を無視するのはあんまりだと思うのです。
僕は少なくとも、家庭を破壊された商人が、破壊した張本人を殺して自分も自殺したと言う単純な構図にしたくなくて、色々考えたのですが、演出家の希望に添う範囲でやるには、最後のそのビアンカの言葉に逆の意味で打ちのめされて死を選ぶ、と言う選択肢しかありませんでした。これならば僕も一応納得して演じられるし、オルダーグも許容できると。
他にも、例えばグイドに対する言葉を歌っているときにビアンカにだけからんで歌うことを要求されて、言葉をグイドにかけることはするなと言われたりしました。自分がこの音楽にのせて歌っている「言葉」と全く違う「内容」の芝居を要求されるわけです。そういうディテールでの矛盾が結構たくさんあって辛かった。
さっきの暗譜の話にも通じますが、「言葉」を歌っている僕らが、その言葉を裏切らなくてはいけないと言うのは、結構歌手としての存在の深いところでつらさを感じますね。腑に落ちない状態で、フィジカルな力をフルに使って舞台に立つというのは辛いです。自己矛盾のなかでおおらかな表現力が出てくるわけがありません。
そういう読み替え、それが芸術だと言われたら「そうですか」としか言えないけど。こういう言葉の扱い(無視?)や芝居の方向性は、作品を熟知した人でなくては理解も楽しむこともできないわけですから、このオペラを初めて観賞するお客さんを無視した行為だとも思うのです。
この矛盾の生まれる源は、オペラ演出がその音楽に根ざしているかどうかがネックであると僕は思っているんですが、まだはっきりとわからないこともあります。もちろん、この問題はこの「フィレンツェの悲劇」に限った話ではないです。またこのテーマには舞い戻ることがあるでしょう。
(2003.04.06)