新国立劇場の話題については、日記での呼びかけに答えて下さってありがとうございました。僕はあまりこのサイトで政治的発言(オペラ界のことについてね)をしないつもりなのですが、この事は話題にもなっているし、僕にとっても大事なことなので、ちょっとエッセイという形で書いてみます。
僕も実家から新聞の記事をFaxしてもらって読んだりしました。記事を見てまず思ったことは、総じてメディアが芸術監督のノボラドスキー氏よりの記事を書いているなぁと言うことです。
日本のオペラ団体が反発しているノボラドスキー氏の方針を、例えば朝日新聞では「どれも欧州では常識のいわばグローバルなスタンダードだ」と、あたかも世界のスタンダードを日本で取り入れるのが必須であるような書き方をしていますが、日本と欧州では、オペラのあり方がまず全然違います。そして、新国立劇場のあり方、それから成立の経緯も欧州でのオペラハウスとは全然違います。
芸術監督と日本のオペラ関係者がそういったギャップを乗り越えて、共通認識を得ないことには新国立劇場、ひいては日本のオペラ界は大変不幸な状況に陥るでしょう。なんとか頑張って欲しいところです。
新国立劇場という劇場は、いわゆる「オペラハウス」と言えるのか疑問な構成になっています。まず座付きのオーケストラがいない。音楽的に責任を負う「音楽監督」がいない。演出的な責任を負う「オペラディレクター」がいない。そしてなによりも、専属歌手がいません。かろうじて合唱は座付きの新国立劇場合唱団の皆さんがいらっしゃいますが。
イタリアではやはりハウスの専属歌手という概念は一般的ではないですが、各セクションの責任者はもちろんいるし、オーケストラを持たない劇場というのはあまり聞いたことがありません。ドイツではあり得ない話です。
でも忘れてはならない大きな違いは、日本と欧州における公演数の違いじゃないかと思います。
東京という街は、世界的に音楽マーケットとして認知されています。でも、オペラやコンサートに足を運んで下さるお客様の「絶対数」は、とても少ないです。音楽会に来て下さる皆さんの中の「熱心な音楽ファン率」はすごく高いと思います。でも、「頻繁にオペラに行くわけではないけどたまには行く」という感じのスタンスの方が少ないのだと思います。これは、オペラに限って言えば、オペラという芸術が日本の伝統芸能ではないことを考えれば、別に不自然とも思いません。(もっとも日本の伝統芸能を劇場で楽しむ方が多くもないという事もありますが)
たとえて言えば、ドイツの聴衆がオペラに行く感覚は映画を見に行く感覚とそう遠くないのではないかと思います。
だから公演数、総動員数がぜんぜんドイツでの方が多いのです。もちろんチケットの値段はドイツでの方が全然安いです。これは公共団体からの援助のパーセンテージが違うのですから、仕方ないです。大雑把な数字で良く言われていたのは、ドイツで総予算の80%が公共団体からの援助であるのに対し、日本のオペラ団体(新国立劇場ではなく二期会など)の予算の20%が公共団体からの援助であると言うこと。割合がひっくり返っていますね。僕の意見ではこの援助の少なさにかかわらず日本でオペラを公演できていること自体が奇跡的なことです。
僕はオペラ歌手だから、多くのお客様にオペラを見ていただきたいと思っています。でも、この違いは文化の歴史に根ざす違いだから、一朝一夕にどうなるものではないと思っています。日本政府にとってオペラに80%の援助を税金から出すのが義務かというと、義務じゃないのでしょう。この事はチケット価格に直接反映されてきます。
例えばゲラでは、一番高いチケット、つまりオペラなどの初日の最高のカテゴリーのチケットが一枚28ユーロです。今のレートで3800円くらい。この予算では新国立劇場では前売りの一番安いチケットしか買えませんね。
もちろんゲラの劇場はドイツの大劇場とはいえないので、ちょっとドイツの大劇場のチケット価格を調べてみました。ベルリンのシュターツオパーとミュンヘンのナショナルシアターの二つを見ました。
どちらの劇場でも、チケット価格のランクのつけかたにいくつかのセットがあり、その公演の重要度によってそのセットを使い分けています。オペラのプレミエは、大体一番値段の高いセットになるし、日常的な公演はそれより一つか二つ安いセットになります。たとえばベルリンシュターツオパーでは、オペラのプレミエは「E-セット」、ミュンヘンでは「M−セット」で、日常的なオペラ公演ではベルリンは「C-セット」「D−セット」、ミュンヘンでは「I−セット」「L−セット」などになります。
で、それぞれの一番高いチケットの値段を紹介しますと、ベルリンのE−セットで120ユーロ(約16000円)D−セットでは80ユーロ(約10000円)、C−セットでは63ユーロ(約8500円)です。ミュンヘンではベルリンより高めで、プレミエのM−セットが190ユーロ(約25000円)。でも日常的公演のI−セットでは97ユーロ(約13000円)です。
プレミエの価格は初日公演一回だけの価格ですから、日常的公演のチケット価格は新国立劇場と比べて、ずいぶん安いのがおわかり頂けると思います。
たとえば、ベルリンの普通のオペラ公演のS席の値段(約8500円)が、新国立劇場のS席(18900円)の半分以下、上から4番目のC席(9450円)より安いのです。
オペラというのは「大衆芸術」と言っていいと思うのですが、日本ではどうも「高級な芸術」と思われ過ぎているように思います。僕にはこれは残念でなりません。
もちろんオペラは偉大な芸術です。感動や慰め、勇気をもたらすものです。そうでなくてはならないと思っています。でも、偉大な芸術が「高級」である必要はないし、また、オペラは決して高級なものではないのです。話の筋と言えば、トレンディドラマと大して違わない物も多いのです。でも、その事実はオペラという芸術をおとしめるものでは決してありません。
実は日常の中に、感動や哲学が隠されているという事でもあるのです。
このチケット価格のことも理由の一つになっていると思いますが、もう一つは欧米コンプレックスもあると思います。これはドイツに住む僕としては、仕事の面だけでなくていろいろな局面で痛感することで、これについて書き出すとまたきりがないので、やめておきます。でも、日本人の持つ欧米コンプレックスが、欧州発の芸術であるオペラを「文化的生活のアクセサリー」という位置づけにしてしまっている部分は否定できないと思います。
ちょっと横道できばりすぎかな。話をもどします。つまりそんなわけでオペラという芸術の位置づけが日本と欧州では大きく違うので、それが直接オペラ観客の数の違いにつながります。平たく言うと、オペラの聴衆は日本では欧州よりも少ないわけです。そして当然のごとく、公演数も少なくなります。
こうした状況をして、「日本のオペラ界はまだ発展途上」「海外の水準に引き上げねば」というスタンスが、今回のメディアの報道の基本姿勢として見られ、それがノボラドスキー氏寄りの報道のベースになっているように見えます。
あるいは、「今の日本のオペラ界は閉鎖的でダメだから、とにかく改革しなければ」というような論調です。
何をして「閉鎖的」なのか。東京ほど、外国の著名アーティストが頻繁に訪れて、レベルの高い演奏会が毎日のように行われる街は類を見ないと思います。場合によっては超一流の音楽家の演奏会が同じ日にぶつかってしまって、どちらに行くべきか迷う、というような事があるくらいです。こんな事は、東京以外ではちょっと考えられないですよ。
東京の音楽シーンというのは、閉鎖的どころか、外人至上主義のようになってしまっています。新国立劇場の公演でも、キャリアも実力もない外人歌手がキャスティングされても、日本人キャストの日よりもあからさまにチケットの売れ行きが良いのです。名前が横文字というだけで。一日本人歌手としては「何故なんだぁ〜〜!」と叫びたくなる様な気持ちもありますが、僕は先ほども書きましたように、日本でのオペラの位置づけや欧米コンプレックスとの関係を考えると、これまた僕らオペラ関係者が真剣に取り組み、変えて行くべき課題と認識していますから、叫ばないことにします。
でもね、これ、悲しくなりますよ。僕の実体験を一つ紹介します。ある新国立劇場の公演で主役のバリトンが体調を理由にキャンセルした時に、ドイツの僕のエージェントがこれを聞きつけて、僕の書類をそろえて新国立劇場に送り、ピンチヒッターとして売り込んだのです。僕は「多分ダメだと思うよ」といったのだけど、その辺の日本の状況をこのエージェントがすぐに理解するとも思えなかったので、一応作業を進めてもらいました。でも新国立劇場の答えは案の定「日本人はいらない」・・・僕は予想してましたけど、エージェントは本当にびっくりしていましたよ。
「イタリアの劇場で、役によっては『この役はイタリア人じゃなくちゃダメだ』というのは聞いたことがあるけど、日本の劇場が『日本人じゃなくちゃダメだ』じゃなくて『日本人じゃダメだ』というのは、一体どういう事なんだ!」と、半ばお怒りでした。
ドイツでも、オーディションで同じ実力だったら必ずドイツ人をとります。外国人、特にアジア人として勝ち残るには、実力で他のドイツ人候補者を大きく上回らなくてはチャンスはありません。オーストリアはもっと閉鎖的です。国民性がそうですが、今は政局がよりその傾向を強めているようですね。同胞のアーティストより外人を好んでとる国なんてグローバルスタンダードどころかどこにも見あたりません。
そして日本の歌手のレベルが如何に高いか。これは実際にヨーロッパでオペラを見て回るとわかることです。僕はベルリンで初めて観たオペラがベルリン・ドイツ・オペラの「マルタ」でしたが、あまりのレベルの低さに、本当にひっくり返りそうになりました。
大雑把に言うと「スケールの大きな歌」とか「びっくりするような大きな声」とかは、日本人歌手の不向きなところですが、「コントロール」「節度」等の点では、日本人歌手のレベルは欧州の歌手の平均をゆうに上回ると思います。もちろん世界のトップレベルはどこの国に行ったって、その国内レベルのトップより上なんですから、世界のトップと日本のトップを比べて、日本のトップの方が上であることを求めるのは無茶な話じゃないでしょうか。(これは単に理屈の話ですが)
それにくわえて、今は欧州をはじめとして世界を股に掛けて歌っている日本人歌手は、本当に沢山います。僕なんかはドイツ中都市の劇場専属に過ぎませんが、フリーランスとしてあちこちで歌っている人が沢山いるのは、日本のオペラファンの皆さんはよくご存じですよね。
まぁその僕でさえ、この劇場ではドイツ人歌手を押さえて主役を歌わせてもらっているわけです。「日本人歌手の名誉」をかけて、責任を感じながら日々の本番を務めさせていただいています。
本当に公正な視点から、まさにグローバルな視点から日本人オペラ歌手の実力をはかれば、「日本のオペラ歌手はレベルが低いから頑張って欧州レベルに追いつかなければ」というような、一部メディアの基本論調になっているような認識は全く見当違いのものだと思います。まぁ僕自身歌手なので、こういう物言いは避けるべきなんでしょうけど、事実ですから。
今回の事件で焦点になっている具体的な方針としては、ノボラドスキー氏の「シングルキャスト」制と日本側の「ダブルキャスト」制のギャップ。日本側としては再演時の稽古を初演時に比べて短縮したくない。などなど。
でも、ダブルキャスト、当たり前ですよ。もし一人が風邪ひいたらどうするんですか。
もし仮に新国立劇場が専属歌手を抱えるオペラハウスだったならば、しかもゲストでなく専属歌手だけで公演をしたいという経済的状況があるならばシングルキャストもやむを得ないでしょう。普通は一つの劇場が、同じ役を歌う歌手を専属として二人雇わないですからね。でも新国立劇場はそういう劇場ではありません。専属歌手はいないし、ダブルキャストを組む予算は充分にあります。
逆に観客へ選択肢を多く提供するという意味でも、ダブルキャストの方が、より観客のためにプラスだと思いますよ。
それから再演時の稽古短縮の件ですが、もし仮に新国立劇場がレパートリーシステムの劇場であったならば、これも可能でしょう。初演時のスタッフ、キャストが専属という立場で、そのプロダクションを熟知していれば、稽古はそれほどいりません。
でも新国立劇場はレパートリーシステムを採用していません。一つの演目はまとまった期間に上演されるだけで、複数の演目が交互に上演されたりはしません。スタジョーネという公演方式で、この場合には再演の度に緻密な稽古が必要です。「日常的な公演」という概念がないからです。
そのうえ、再演の時のキャストは、全く違うものになることがしばしばです。僕がこの間歌ったアラベラのプロダクションでは、大半の歌手がこのプロダクション初体験者でした。これではレパートリーシステムでの「再演」とは全く違う代物です。
これは架空の比喩でなく実体験ですが、ウィーンでおいしかったコーヒーの豆を日本に持ち帰って、日本の水で淹れてみたらウィーンで飲んだときほど美味しくなかった。水が違えば同じ豆でも違う味になるのです。イギリスの紅茶をドイツで飲んでもやはり違う味になる。そういうことでしょう。
ふう。こういうテーマだと力が入って長くなってしまう。管理人さんにも怒られそうだし、この辺で一度やめておきましょう。続きを書く機会もまたあるかも知れません。新国立劇場成立の経緯にはもう触れません。でもここがまた大事なんです。興味のある方は、どうして新国立劇場ができたのか、一体どのくらいの期間準備に費やしたのかを調べてみて下さい。無視できない要素です。
僕が今回の件で恐れていることは、この新国立劇場内の不和自体や新国立劇場の将来もさることながら、僕が読んだものも含めて事実認識を誤った報道が真実として受け取られてしまい、日本の聴衆の皆さんが「今の日本のオペラ界は閉鎖的で良くない」「世界の常識=良いもの」「とにかく改革するべし」と考えてしまうことです。僕らも頑張ります。皆さんも自分の目と耳で事実を知り、是非僕らと一緒に考えて下さい。
(2003.6.26)