ずいぶん更新をしない日々が続いてしまいました・・・。10日以上空いちゃいましたね。僕のMacintoshが故障したあたりからそうだったんだけど、結構色々なことが起こって、日記にそれをあとから書いていくような日々があったのですが、その後も色々あり、その上ちょっとした事件もあって、日記を書く気持ちになれなかったりして、今日に至りました。
日記を後から書くのも、場合によっては悪くないんだけど、やっぱり日にちが空いて書くと、新鮮味が薄れるし、話題としてもアクチュアルとは言い切れない感じになったりしますから、あんまり良いとも言えないんですね。でも、やっぱりその日のうちに書いてアップというのができない場合がほとんどだと言うのも事実です。難しいところですね。
事件と書きましたが、これは本当に僕にとっては大きな出来事でした。僕の直接の上司であり、この5年間の劇場生活で一番関わりのあった人物、オペラディレクターのブリューアー教授が亡くなったのです。
突然のことでした。僕自身は、実は彼の具合がかなり悪いことを知っていたので、なくなったと知った時は「まさか」というのと「やっぱり」というのが半々と言うところでした。他の同僚は本当にびっくりしたと思います。
彼のこと、彼が亡くなったことについてここで書き始めると、本当に、すごく長くなると思うので、これはあらためてエッセイに書くつもりです。
6月1日の夜に亡くなって、6日の月曜日に葬儀がありました。僕はこの葬儀でオペラ部門の同僚を代表して歌うという大役を仰せつかりました。インテンダント(総裁)とオペラ部門の代表のギュンターから電話があって、ブリューアー教授が就任とともにゲラに連れてきた歌手の中で今も残っている唯一人の歌手であること、とにかく彼の演出の中で4つのタイトルロールを含めて、一番つながりがあった歌手であることを考えて、僕が歌うのが妥当だという話になったと聞きました。勿論僕は嬉しかった。
彼がこよなく愛したモーツァルト、その歌曲を一曲歌いました。「夕べの想い」という曲で、これはインテンダントの要望を退けて、僕の希望を通させてもらいました。何が何でもこの曲を歌いたかったのです。
歌った後で、ソプラノの同僚から、ブリューアー教授がこの歌曲をとても好きだったという話を聞き、やっぱりこの曲を歌って良かったと思いました。葬儀会場にピアノがなかったので、シュトゥーディエンライターのトーマスに弦楽四重奏に編曲してもらったんですが、ブリューアー教授が弦楽四重奏にすごく執着心と愛情を持っていたという事実とも偶然マッチして、とても良かったと思います。彼は絶対に喜んでくれたはずだと思っています。とにかく嗚咽せずに歌いきろうと、ずっと目を閉じて集中して歌ったんですが、最後の一節はもう声になりませんでした。
彼が亡くなって、僕が彼と、舞台人として共有していたものが如何に多いかを思い知り、愕然としました。意外に共同作業をしている時は、具体的な問題とかの方が目につくと言うことなんでしょうか。
この5年間で、「音楽劇場」という表現手段の中で、妥協なくぶつかり合い、戦ってきたのでした。お互いに妥協しなかったので、意見が合わなくてとことん討論したこともあるし、喧嘩みたいになったことも少なくなかったんですが、彼が僕を最終的には買ってくれていたことは、僕にはよくわかっていました。
彼が死んで、こんなに悲しくなるとは思っていなかったのです。自分で本当にびっくりしました。今でも気がつくとぼーっと彼のことを考えています。後10日で還暦だったんです。やっぱりちょっと早すぎたと思う。来シーズン一杯頑張って「劇場支配人」「モーツァルトとサリエリ」の2本組、「コシ・ファン・トゥッテ」を演出すれば、彼のゲラでの契約期間の仕事を全部終えることができたのに。
でも、体はもう本当に無理がたまっていたようです。最後の演出作品が「魔笛」であったことは、彼自身にとっても喜ばしいことだったかも知れない。
心から冥福を祈るとともに、彼の抱いた理想に関わった歌手として、これから彼に恥ずかしくない仕事をしていこうと思います。
安らかに眠って下さい。
実はこの葬儀の二日前に、僕ら夫婦は友人の息子のPate(パーテ)になりました。パーテとは、名付け親などとも訳されるのですが、洗礼の立会人として、その後の人生を親とともに見守っていく人のことです。
ここでも、パーテとして贈る言葉の代わりに歌を贈りました。これについてもエッセイに書くつもりです。僕ら夫婦としては、ドイツに住んで10年目にして、ドイツ人の友人からここまでの信頼をされたという意味でも大きな出来事でした。ヨハネスという男の子なんだけど、これがまたかわいいんだ。
生まれる人があれば逝く人もいる。これを痛切に感じました。