父の葬儀

デュオ・リサイタルのあと、ずっとサイトを更新できなくて申し訳ありませんでした。タイトルにあるとおりですが、あのリサイタルの二日後に父が亡くなり、喪主として今日の告別式を終えるまでは父を送る事に専念したかったことと、実際に色々な事情、手続きがあり時間も取れませんで、今になってしまいました。


父は発明家として、プレス機械の安全装置を開発し、プレス災害の絶滅を目指して働いた人です。このサイトに来て下さる皆さんにはあまりなじみがない話だと思うのですが、父も亡くなったことだし、「親ばか」ならぬ「子ばか」として少しくらい親の自慢をしてもばちは当たらないだろうと思うのでちょっと書いてみます。


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尋常小学校にしか通えず、本人は進学を強く希望して母親の支持も得たのですが、おじいちゃん、つまり父の父はそれを聞き入れなかったそうです。父が高等小学校へ始めて登校した日におじいちゃんが校門に迎えに来て、そのまま学校はやめさせられて丁稚奉公をさせられたそうです。さぞ悔しかった事と思います。
戦時中は戦闘機「隼」の整備員として従軍し、戦後は焼け野原になった東京で、自分で作った竹細工を売ったりして生活していましたが、ある工場で働く事になってそれをきっかけにプレス機械の危険性と、その安全対策に関わるようになりました。試行錯誤の結果、それまで難しいと言われていた、プレス機械の作業効率を下げずに機能する安全機の開発に成功し、小森安全機研究所という会社を設立してこの安全機の普及に努めました。


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それまでのプレス安全機が著しく作業効率を下げるものであったため、一応設置はしても使われないという状況だったのに対し、父の機械は作業効率を下げずに安全を確保するものだったので一気に普及し、当時の労働省もプレス機械への設置を義務づけたため、父の会社は大躍進を遂げました。プレス災害は著しく減少し、その功績に対して労働大臣の善行賞、顕功賞、内閣総理大臣賞、藍綬褒章など数々の賞を受賞しました。
父自身の親戚もそうでしたが、それまでのプレス機械災害によって指などをなくした人が少なくなく、その不幸を悼むと同時にプレス災害の絶滅を祈念して、我が家の菩提寺である浅草の善龍寺に「指塚」を建立しました。僕も子供の頃から、お墓参りの度にお墓だけでなくてこの指塚にもお参りしたことを良く憶えています。指塚には 「指塚建立の趣旨を理解し高徳の人格を培い 積善の人となり、よくこれを守り社会の進歩に貢献せんことを願う」というメッセージが刻まれています。
全く音楽とは縁がなかったわけですが、僕が高校時代に急に進路を変えたいと言い出したときには、一言も反対せずに好きなことをやれと言ってくれました。あれをやれこれをやれと、僕に対して細かいことは一切言わない父でしたが、節目節目では重みのある言葉をかけてくれましたし、父の仕事や社会に対する姿勢を通じて、僕は多くのことを学んできたと思います。子供は親の背中を見て育つというのはこういう事なのでしょう。
享年84歳でした。ご存じの通り僕はドイツに住み始めて10年経ちますから、親の死に目に会えるとは思っていませんでした。僕にとってとても大事な演奏会であったデュオ・リサイタルの二日後に父が亡くなったこと、普段であれば10000kmの彼方にいるはずの僕が喪主を務めることが出来たこと、細かくは書きませんが、偶然とは思えないことがいくつもあったのです。これら全てに、大事な意味があったのだと僕は信じています。お父さん、安らかに眠って下さい。
僕も徐々に日常に戻って行かなくてはなりませんが、父の死に伴って色々とやることもあり、なかなか難しいです。サイトの更新も含めて至らないことがあるかも知れません。出来るだけ早く元のペースに戻るべくベストを尽くしたいと思います。とにかく次の演奏会は9月1日の銀座十字屋ホールでの津山恵さんとのジョイント・コンサート。9月3日には日本フィルとのモーツァルト作曲「レクイエム」、9月14日は読売交響楽団との演奏会。情報ページに充分な情報をお出しできていない部分もありますので、大変申し訳ありませんが、お問い合わせは管理人さんへメールでお願いします。

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