インタビューや前記事もいくつか出たおかげか、結構お客さんもたくさん来てくださって、良いコンサートになりました。アンコールとして、新曲を2曲初演しました。これは色々と事情があって、当日までみんなに内緒にしていたんだけど、みんな喜んでくれたようです。
プログラム自体は去年の5月にアルテンブルクで歌ったもの(そう、8月のデュオ・リサイタル会場でこの5月のコンサートのCDを販売しました。・・・サイトのCD販売、遅れに遅れております・・・リクエストしてくださっている皆さん、すいません。出来るだけ早くやりますから)で、シューマンのリーダークライス作品24と詩人の恋でした。ピアノもそのときと同じドルシュ・真子さんで、結構そういう意味では安心して歌える環境だったんだけど、アンコールに初演の曲が二つ、しかもこれを暗譜でやったので、やっぱりそれなりにプレッシャーはありましたねー。
同じプログラムを何度かやるというのは、演奏家にとってはすごく大事ですね。いつも思っていることだけど、オペラの分野ではあってもコンサートを同じプログラムで何度もやる事ってなかなか無いから、今回はその思いを強くしました。
特にドイツ・リートだから、オペラとは全然違う声のコントロールを要求されます。僕はここ数年は、リートでの繊細な響きをきちんとコントロールできるようにすることが、一つの大事なテーマだから、今の僕にとってこのプログラムの反復は意味が大きかった。
やっぱりもう8ヶ月経っているし、その間に技術的に進歩している部分はかなりあるし、安定はしますね、やっぱり。技術が進歩しても、曲が替わると、曲に対する緊張もあるし、別の表現をしようとすると同じタイプの技術でも全く同じようには捉えられないんですよね、悲しいことに。だから、全く同じプログラムをこういう風に時間を空けて歌うとその間に、僕の中で起きた変化というのが如実にわかる。
僕としては、5月の同プログラムのリサイタルの後に、重要なコンサートがある度に歌曲演奏の技術はちょっとずつ安定してきて、それがやはり確認された感じで、これはかなり嬉しい。8月の東京でのデュオ・リサイタルでは今回のプロにも入っている詩人の恋を歌ったし、10月の劇場のオーケストラの定期演奏会ではマーラーの「さすらう若人の歌」を歌った。両方とも技術的な意味で多く挑戦的な部分があるプログラムでした。
8月は、自分としては弱声のコントロールが当日はいまいちで、課題をはっきり残しました・・・。この8月のデュオ・リサイタルのプログラムは、リートからヴァーグナーまで歌ったので、すごく声への負担が大きい選曲だったんですが、曲の順番などはかなり緻密に考えました。軽いものから重いものになだらかに移行するプログラムにしたわけです。でも当日、ホールに行ってからの練習で、一度重いものを歌ったあとで、本番で軽いものに戻るのが大変だったんですね。よくよく考えれば前もってはっきりしている状況なんだけど・・・。で、本番での軽いもの、つまりリートのコントロールがすこしおおざっぱになってしまった。これが課題でした。
10月の「さすらう若人の歌」では、ほとんどテノールの音域まであるこの曲集の高音の弱声部分をコントロールすることと、ドラマティックな3曲目でむっちりとしたフォルテがちゃんと体全体に響くこと、この両方を満たすことが課題でした。僕の師匠のデヴィッドもよく言っていたけど、この「さすらう若人の歌」は、弱声の難しさの方が先に行くから、どうしてもそういう観点から歌手を探すことになりがちで、弱声の上手な歌手がこれを歌うことになり、結果的に3曲目「僕は胸に燃えるナイフを持っている」のドラマティックな表現がいまいち・・・という事が多いんですね。だから、この二つのポイントを両方クリアすることは大変重要と思う。
10月のコンサートでは、さすがにこの「さすらう若人の歌」自体を歌うのがもう4度目だから、これはかなりうまくいき、自分としても満足でした。新聞で「高い方がきつそう」という批評も一部あったんだけど、あの音色で「きつそう」といわれてしまうならば、僕にはもう改善できる余地はないなぁとはっきり思えたので、これはこれで良いのだと思います。だいたい、バリトンのための曲で上のGis(ソのシャープ)をPPPで歌うように書いてあって、まったく「きつくない」様に響いてほしいと作曲家が望んだとは僕には思えない。無茶な音域なんですから、それはそれである意味での「きつさ」を表現として必要としていると思うんです。言ってみれば「心理的な軋み」みたいなのが聴きたくてマーラーはこれを書いたと思う。そうじゃないならテノールに歌わせるべきだ。まぁいいや。話がずれた。
で、このときに、僕の言い方で言うと、オペラでのたくましい声とリートでの繊細な声の間の行き来がかなり余裕を持って出来るようになったんです。これが僕のこの8ヶ月の変化で一番大きなポイントだったかな。
で、今回のチャリティーコンサートでは、この8ヶ月の変化を自分で確認できて、大変良かった。技術の方が楽になると、当然だけど曲の内容、音楽により深く入り込むことができる。リートでは、オペラよりもさらに、曲に埋没することが重要だと、最近すごく思います。
かなり前の時点では、音楽に埋没することは良くない!とはっきり思っていました。見られる、聴かれる存在としての歌手の声のコントロールなどがおろそかになるし、だいたい、埋没によって自己満足の世界にはまってしまう危険がすごく大きいからです。
この危険が大きいという認識は今も全く変わらないんだけど、やっぱりトレーニングをずっとしてきたという事もあるし、自己満足でお客さんをなおざりにする、という事は、強く意識しなくても避けられるようになってきたと思う。
また人智学との関連も出てくるんだけど、やっぱり、人の心の琴線に触れるような「すごい瞬間」というのは、だいたいの場合、自分が予定していたとおりの演奏が出来た時じゃなくて、なにか自分の意識以上の存在というか、何か「大いなるもの」の力が働いたときだと思うのです。そして、ここにたどり着くには、「忘我の境地」に行くしかないと思う。
自分の思考の結果や判断を「捨てられる」様になることが、本当の思考をするためには不可欠だとシュタイナーは説いています。僕はこれを最初に読んだとき、考え方としては割と受け止められたんだけど「これは自分には無理だ」とはっきり思ったのを覚えています。僕はすごく色々と考えを巡らせる方で、その思考の結果を万全に演奏にも生かしたいと思うから、その思考の結果、判断を「捨てる」なんて、そんなもったいないことが出来るか!という感じだったのです。
でも、この考えがここのところ、はっきり変わってきました。そして、この「忘我」の実践には、自分を忘れられるくらい音楽に深く埋没することが、一つの道だと思うわけです。
村上春樹さんが、自分の作品は書かれた時点で自分から離れて一人歩きする、という事をよくかかれているけど、これもそういうことかなぁ、と今思いました。小説の内容について説明を求められて「わからない」というと、「あんたが書いたものなのに、わからないわけがないじゃないか」と怒られてしまう、というアメリカの大学でのエピソードを読みました。
似たような感覚を僕も持つことがあります。詩人の恋なら詩人の恋で、その若い詩人が恋をして失恋し、狂気を経て自分の命を絶つ(多分)までのプロセスを、詩と曲とをもとにして、僕らはかなり研究して演奏計画を立てるんだけど、演奏のその一期一会のその場で生まれる青年像というのはやはり毎度同じにはなり得ない。解釈とかそういう問題じゃなくてね。その青年が一人歩きして、それを僕ら演奏家は見守りつつそばに居続ける、という感じなのです。
言ってみれば、僕としても「さぁ今日はどんな詩人になるかな」という様な「わくわく感」がある、という感じでしょうか。
前置きが長くなりましたが、今回のリーダークライスと詩人の恋、こういう意味合いでも演奏を楽しめたと思います。この二つは似たような展開の歌曲集で、人によってはこのリーダークライス作品24のことを「Kleine Dichterliebe (小さな詩人の恋)」と呼んだりします。繰り返される憧憬、喪失感、アイロニー、どれも大切に表現したつもりです。
さて、そしてアンコールの初演2曲。フランク・ヴェデキントの詩による歌曲で、1曲目は「Nicht alle Schmerzen sind heilbar(癒され得ない傷がある)」2曲目は「Der Gefangene(囚人)」。
この初演を内緒にしていた事情があると書いたけど、これはね、ヴァルドルフ小学校設立運動と関係があります。これを作曲したヴェルナー・ハースという人はビーレフェルトというところでヴァルドルフ教師をしている人で、音楽が専門。ハンブルクで大学時代にハンブルクのヴァルドルフ小学校設立運動にかかわり、それ以降、人智学徒としてまっしぐらに生きている人です。そして、この人が本来ゲラのヴァルドルフ小学校の設立責任者だったのです。
そのハース氏が追い出されてしまったことは前に日記にちょっと書いたのですが、それで僕ら子供の親たちが立ち上がり、ハース氏にまた戻ってもらうために運動をしたのですね。僕が東テューリンゲン・ヴァルドルフ教育協会の理事になったのも、一つはそのためなんです。でも、結局は実現しなかった。彼を追い出したグループの執拗な、そして意味も根拠もない中傷にハース氏も耐えかねて、3度目の会議途中で彼は席を立ち、そのまま彼はゲラを後にしました。僕はとにかくそれが悲しくて、彼が去って会議参加者が呆然とするなか号泣してしまったのです。今考えても、いや、どう考えてもいい大人の男性がそんなところで声を上げて泣くのは恥ずかしいんだけど、もうね、泣くほかになかった。後から話を聞いたら、僕の態度を見て、イェナから来ていたメンバーが、いかにハース氏がゲラの人間を深く納得させていたかを悟った部分があるそうで、無駄じゃなかったみたいなんだけどね。まぁ恥ずかしいですね。
その後も、彼がこの1年間でゲラにもたらしたものをとにかく無駄にしないために、ただでさえきつい仕事の他に、イェナでの理事会に行って、未だにハース氏を目の敵にする経営トップにハース氏の業績をわからせたり、ヴァイマールやケムニッツのヴァルドルフ小学校の先生達と頻繁に連絡を取り合って動いたりと、とにかく働きました。複雑な話をドイツ語で、しかも場合によっては討論して相手を納得させなくちゃいけない。これは本当に大変だったけど、反面もちろん勉強になった。
ハース氏が追い出される羽目になった一つのポイントは、ゲラの小学校を自立させるために腐心したことでした。イェナが経営をとりあえずは共同でやるのですが、平たく言えばイェナの経営トップはゲラに自立されると困るというか、決定権をイェナに集めたい。僕が参加した時点で、もう決議するだけの段階になっていた東テューリンゲン・ヴァルドルフ教育協会の規約では、ゲラの生徒に対するテューリンゲン州からの補助金はイェナの協会に入り、経営の上での出費はゲラの協会が出さなくてはいけない。そして、イェナの協会の決議なしにはゲラは何一つ自立した判断が出来ない。そして、決定的なのは、この規約の成立のための決議にゲラのメンバーが参加できなかった。ゲラにとって運命的な規約の決議権をゲラのメンバーが持たない!こんな事があって良いわけがない。でも、僕はこの決議がされた時点では協会メンバーになる希望を出していた段階で、この規約成立後に理事選挙があったので、何も出来なかった。もちろんこのポイントで意見はしたんだけど、実務的に他の可能性がないという事でとりあえず決議させてくれと言われた。
どうしてそんな運びになったかというと、そこまでの時点でイェナとゲラの間に入って仕事をしていた人たちが、言ってみればイェナの経営トップと組んでいて、そういう危険を意識的にゲラの人間に伝えなかったんです。何百人もいるイェナの協会メンバーに対してゲラは3人。協会メンバーになる必要性を伝えなかったからです。僕はその総会の開催を知って勝手に行ったからね。
それもこれも、ゲラの小学校設立運動の準備機関が、適切な構造を持たないからで、教育に直接関連のある事柄に対して決議権のあるInnere Kreisという機関と、経営と法的問題を受け持つ協会という機関、この二つがごちゃごちゃになっている上に、事務所で実務をする人たちが情報をしっかり管理していない。
この構造の適正化は僕がこのInnere Kreisのメンバーになってから口を酸っぱくしてその重要性を強調していて、やっと年が明けてから再構築が始まった。やれやれ、という感じです。でも、これによってイェナの経営トップは自由が利かなくなるわけで、最近、僕に対する中傷、攻撃があからさまになってきた。まぁ仕方ないです。彼の野望を打ち砕こうとしているわけだから。
・・・あー長い。話題が多岐にわたりすぎるな。すいません。長文苦手な方、何度かに分けて読んでください。
今この設立運動の方の問題は、ヴァルドルフ教育のドイツの本部があるシュトゥットガルトも巻き込んで行く可能性が出てきました。でも、僕にはもうあまり出来ることがないかもしれない。来月「コシ・ファン・トゥッテ」の立ち稽古が始まったら、もう僕にはこの運動にこれまでのようなやり方で関わる時間はないのです。
逆に言うと、ここまでの数ヶ月、プライベートの時間、つまり家族との時間を徹底的に犠牲にしてこの運動に参加してきたんだけど、それももう限界という感じがあるのです。健登の行く小学校を良い小学校にするために戦ってきたわけだけど、そのために今の家族との時間を台無しにしていたら、主客転倒だ。
理事として、Innere Kreis のメンバーとして、普通に進むプロセスの中で自分の担当の仕事をこなしていくだけなら可能だとは思うけど、今までのように、ちょっと気を許すと不意打ちを食らうような気持ちで毎日を過ごして、陰謀が一歩一歩我々の小学校を蝕んでいくような状況ではとても続けられない。幸い、この構造再構築の最初の段階は成功して、3人のトップメンバーが選挙で選ばれ、その3人は選ばれたことで奮起して、いますごく頑張ってくれているんです。このまま何とか良い形になることを祈っています。
その意味でもこのチャリティーコンサートは僕にとって一つの区切りになるように思いました。
さて、その初演の二曲。ハース氏・・・いや、この運動を経て、僕らはdu(「君」親称)で呼び合うようになったのでヴェルナーというべきだな。ヴェルナーの、このゲラでの出来事の喪失感とこのヴェデキントの詩が共鳴したのだと思います。
すべての傷が癒され得るわけではない
なぜなら心の中深く、深くに忍び込んでいく傷があるからだ。
そして、日々、年月が過ぎるうちに、石になってしまうのだ。
おまえは笑って言う。あたかもそんなことは大したことではないように、
その傷が泡のように消えてしまうと。
でもおまえもその傷の耐え難い重さを、夢に見るほど感じているはずだ。
また春が来て、暖かさ、明るさによってこの世は花の海になる。
でも、私の心には、もう何も咲かない場所があるのだ。
囚人
私は夜、ベッドでくよくよと考え、あちこちに思いをはせる。
「もし私の自我が、ある別のものであったら、それは何を傷つけたのだろう」
あざけるように、私の疑念が私に、たいした答えをささやきかけるんだ。
「何にも傷つけやしないよ、ばかなやつだ。
だって、そうしたらお前は別の誰かなんだから」
途方に暮れて、ねむれずにベッドで寝返りを打ちながら、
僕はこの詩を、僕自身からもぎとったんだ、
鎖の音をじゃらじゃら言わせながら。
いままでどんな思想家や哲学者も砕くことが出来なかった
この鎖を。
ヴェルナーを良く知る人は、この歌曲の中に、彼のロマンティシズムをはっきり聞き取ってくれたようです。「この歌曲の中にヴェルナー・ハースを聴くことが出来た」この感想は、演奏家としての僕にとって、最高のねぎらいでした。頑張って暗譜した甲斐があったよ、ヴェルナー!