ドイツ・ヴァルドルフ学校連盟理事、シラー氏の講演(訂正あり)

昨日、ゲラのヴァルドルフ小学校設立運動の一環で、シュトゥットガルトからヘルトヴィヒ・シラー氏を招いて講演がありました。シラー氏は、ドイツのヴァルドルフ教育関係者だったら知らないものはいない有名人であります。シュトゥットガルトにはヴァルドルフ学校連盟の本部 がありますが、シラー氏はここの理事をされている人で、僕はドイツのヴァルドルフ学校のトップにいる人だと理解していたんだけど、昨日はちゃんと肩書きを言わなかったなぁ。学校の設立に関してはとりわけ重要な人物らしく、今のゲラの設立運動ににとっては最重要人物といっても良いですね。
講演のタイトルは「ヴァルドルフ学校での宗教教育」で、僕は大変楽しみにしていました。


知人が亡くなって、葬儀があるとかでシラー氏の到着は遅れたのですが、講演の前に予定されていた設立運動の会議への参加が遅れただけで、講演には支障はありませんでした。僕はこっちの会議の方から参加していたんだけど、こっちは3月に予定されている、ゲラの設立運動を承認してもらうための会議の準備でした。そこで話す内容を確認して、言ってみれば予行演習みたいな事をやっていたのです。本来はそれをシラー氏に聞いてもらう予定だったのですが。
 
さて、シュトゥットガルトからの長い道のり・・・400kmくらいでしょうか・・・を車で走ってきたシラー氏、講演の前に休憩したいだろうと思ったら、「それよりもゲラの設立運動の話を聞きたい」ということで、早速会議に参加。タフです。多分お年は50代後半という感じだと思うのですが、自分でそれだけの距離を運転してきて、講演も控えているのにね。まぁ慣れているとは思うんですが、それにしてもタフだなぁ。
 
さて、講演ですが、まずは、今ドイツでとにかく教育問題となると二言目にはこの話、というピサの話 から始まりました。斜塔のピサじゃなくて、Programme for International Student Assessmentの略です。これを語っていると長くなっちゃうけど、世界の子供の学習のすすみ具合を比べようという試みです。これでドイツがえらく悪い点を取っちゃって 、今、ドイツの教育関係者は冷や汗かきながら対策を講じているのですね。・・・こういう試み自体、僕はどうかと思っているけどね。また意味のないグローバル化ですよ。まぁこの話はいいや。
 
このピサの点数が良くなる事を目標にして、教育政策が講じられているのですね。まぁ今は特に名誉挽回のフェイズだから、特にそうなっているんだろうけど。でも、つまりは、点数がよい子供を生産する教育が良いという価値観が根底にあるわけです。
ここにまず、疑問を投げかけるところからシラー氏の講演は始まりました。
 
出来るだけ速く、多くの情報を、正確に取り込むこと。これがピサでは問われているわけですね。これが「教育」なのか?といわれたら、僕は「NO」とはっきり言うけれど、「いや、NOというのはちょっと極端じゃないの」ってのが普通の意見でしょう。そりゃ僕だって、出来るだけ速く楽譜を読んで、出来るだけ速く暗譜したいと思います。その方が仕事ははかどる。でも、速く、正確に、多くを覚えても、良い音楽は出来ませんね、必ずしも。
 
ご存じの方も多いと思いますが、ヴァルドルフ教育では「芸術」が大変重要視されています。シラー氏の機能の言い方を借りると、「ヴァルドルフ教育においては、芸術は『副科』でなく、「主科」なのです」ということ。上の僕のたとえでいうと、つまりこの「良い音楽」にあたる部分が、子供の教育で一番重要なんじゃないか、という事です。「人間性」「生命力」と言っていいと思います。
 
宗教教育というタイトルだったけど、思っていた内容では全然無かった。僕は仏教徒でキリスト教社会の中にいるわけだし、このギャップは健登も感じるはず。ヴァルドルフ教育というのは、一定の宗教を強制しないことでも有名だけど、それにしてもやっぱりキリスト教の影響は人智学の中に非常に濃いから、その辺をどう扱うのか、という興味で講演に出かけたのですが、その意味では当てがはずれました。でも全然おつりがたっぷり来ましたねー。
 
ピサの話に戻ります。それだけみんなが点数を巡って競争をする。当然勝者もいれば敗者もいる。今ドイツではとにかく失業者問題が常に意識されていますが、具体的に、就業者=勝ち、失業者=負けみたいな構図がやっぱり出来ている。保障がしっかりしているシステムだから、就業者が払う膨大な税金が失業者に回るのは当然のことなんだけど、たとえば失業者が下手に再就職すると、前の給料から計算される失業手当より収入が減ったりするので、簡単に再就職しない人もいた。今年の1月からまた法律が変わって失業手当が全体的には減ったから、こういう事もあまり出来なくなったかもしれませんが、以前は再就職によって収入が減る、という事態は往々にしてあったのです。まぁこれは別の話だね。
 
敗者のことを考えられない人間で世界があふれてしまったら、地球はどうなってしまうんでしょうか。
「宗教教育」というのはこの辺をテーマにしていました。
人間の認識能力、思考能力について段階を経て語られました。
 
まずシラー氏はIntelligentとIntellektuellの違いについて話したんだけど、この二つの概念の対比はたびたび話題になります。
昨日の話では、intelleigentというのは総括的に、関連性を含めて理解する能力。Intellektuellは憶える力、言ってみればピサで問われている能力という事でした。
でも、これは両方とも「あたま」で行われる作業です。
そして、もう一つ深いレベルでは感情emotionです。これは自然に発生するもので、Sympathie,Antipathie(好感、反感)のどちらかに分類されますね。これは訓練するタイプのものではありません。わかりやすく象徴的にいうと「むね」「こころ」ですかね、場所的には。
 
もう一つ下がると、今度はFühlen感じること、知覚すること。ここは大いに訓練されるべき場所です。Ehrfurcht(畏敬), Dakbarkeit(感謝), Geneigtheit(やる気、あるいは愛着) Bescheidenheit(謙虚さ), などなどを感じられるようになるべきだと。前にどこかで書いたんだけど、物事を理解するプロセスとして感謝、畏敬、帰依というのが大事だというのがシュタイナーの主張で、僕もこれはすごく納得できるようになりました。
そしてここは、芸術によって育つ場所でもあります。芸術が主科たるゆえんですね。これを感じるところは「はら」かなぁ。段々下がってきます。
 
さてもう一つ進むと「道徳教育」のレベルになります。
道徳というのは、「〜するべき」という形で語られることが多いように思うのですが、「〜するべき」と教育するのでなく「〜したい」と思う事だという話でした。これは結構感動的だったな。モラルの破壊が起こっている一つの理由は、やはりこれをお仕着せとして実行することが形としてあるからじゃないでしょうか。
道徳的行為を「したい」「僕はそれを出来る」「僕はそれをする」という道筋で行われてこそ、本当の意味での道徳的な行為であるという事です。
 
でも、まだ宗教の話にならなかった。ここでやっとです。
ドイツ生まれでアメリカに亡命した、エリック・エリクソンというフロイトの流れをくむ精神分析学者の主張ですが、「子供が生まれてから1ヶ月目くらいまでにその子がどう扱われるかで、その子の人間性の根本が決まってしまう」という話でした。ここで、自分の存在を認められることで「Urvertrauen」(・・・信頼の根源、みたいなことでしょうか。根本的な信頼感、でもいいかな)が形成される、という事なのです。微笑まれ、だっこされて、愛情を存分に受けることで、自分を取り巻く世界への根本的な信頼感が生まれる。これをされないと、逆にUrmisstrauen(根本的な不信)が生まれてしまうと。
どんなに高級なベビーカーのクッションも、お母さんのおなかの羊水のベッドにはかなわないし、どんなに優れた空調だって、おかあさんから直接血液に供給される空気の居心地の良さにはかなわないし、最高級の床暖房だってお母さんのおなかの暖かさには勝てない。完全に守られているわけです。それが急にこの世界に引っ張り出される。そりゃ不安ですよね。泣きますよ、大声で。
だから、この誕生の瞬間からしばらくの間に「根本的信頼」を築けるかどうかが大事なのです。これは僕らが立っている「じめん」のレベルでしょうか。
この根本的信頼を感じること、これがまさに子供にとって「宗教的体験」だというのです。他のすべてのレベルはこの上にのっかってっくるもので、この根本的信頼なくしては、他の能力も育たない。これは僕にはすごく実感できました。「Ich bin als Mensch getragen(自分は人間として支えられて/抱かれているのだ)」という安心感。ここから人生をスタートさせたいと。
シュタイナー教育でよく言われる、幼児の「模倣衝動」はこの根本的信頼から発しているとのことです。信頼するものに自分をだぶらせていく行為だと。
インテリジェンスで作業する段階、ものを憶えたりするレベル(あたま)。
一つ下がって、感情のレベル(むね)。
一つ深く下がって、芸術的センスで作業するレベル。「感じる」事を訓練するレベル(はら)。
更に下がって、モラルを育成するレベル。自分の意志で道徳的な行動を進んでしようとする姿勢を作る(うーん。どこだろう。下腹とか?・・・苦し紛れ)。
そして、更に深い「根本的信頼感・安心感」を感じるレベル(じめん)。ここでの「宗教的体験」が非常に大事なんだ、という事でした。
この根本的信頼をベースにして、つまり自分は愛されている、受け入れられている、支えられている、抱かれているというところからスタートして、子供はヴァルドルフ学校で、級友達と毎日「出会う」とのこと。
 
ヴァルドルフ学校では、普通の学校のように子供が座ったままで勉強するようなことはありません。座っている暇なんかない、という言い方をしていました。残念ながら僕は実際に見たことがないので、僕の経験として書けませんが。その中で、毎日のように子供達は級友達と毎日新しく「出会い」続けるのだと。座る暇なんかないカリキュラムの動きの中で、横に座って一緒に勉強するのでなく、文字通り「出会う」わけです。そして、好きな子も嫌いな子も出来るだろうけど、8年間同じメンバーで過ごすことを通じて、社会性を養っていきます。たとえば自分のことを嫌っているらしい子が自分をどこまで受け入れるか、また自分がその子をどこまでなら受け入れられるか、という感覚を養うことでもあります。
この出会いは、次の段階「愛すること」へつながっていくそうです。この愛というのは、好感・反感という意味での愛、異性への愛情とかそういうレベルの話だけではなく、相手の存在を「受け入れる」相手に「誠実に接する」という、更に深まった愛情のことだそうです。僕は個人的にこの辺のことを最近よく考えるので、これは唸りました。僕にとっては、こういう愛情を持つためのベースがなんなのか、という方向で理解の糸口があった様に思います。
そして、この愛は、いわば宗教的な、あるいは信仰心に近い愛情なのですね。僕はキリスト教徒ではないけど、二つの段階を経てかなりキリスト教というものに深く引き寄せられているのは事実です。今は人智学的観点でキリスト教を見る機会がほとんどなのですが、やはりゴルゴタの丘で起こったことが、仮になかったとしたら、僕ら人間はこういう存在ではなかったという事、これは割とわかるのです。その献身、人間存在への受容、その上で誠実でいるという、やっぱり偉大としか言いようがない行為・姿勢を、僕ら一人一人が学んだとしたら、それは必ず、この世界を良くすると思うんですね。学ぼうと努力するだけでも、その一つ一つの試みが世界を何ミリかずつ良くしていくと思って日々生活しています。
こういうプロセスが、人間的な生命力を強める、ということでした。
前に新聞のインタビューで、この辺は話したんだけど、やっぱりヴァルドルフ教育って何ですか、と聞かれて、短く答えるとしたら僕にとっては「人間の生命力を伸ばす教育です」という感じになります。僕の場合、現時点では。個人的には「人間力」という言葉を使ったりしているんだけど。
これが、ピンチに陥ったときに生き延びる力だと思うし、自分が困っているときに他の人に優しくできる強さだと思うし、あきらめそうなときにやっぱりあきらめないしなやかさだと思う。うーむ。あしたのジョーの主題歌みたいだ。いやいや。
こういう考えを進めていくと、歯の生え替わらないうちに文字を教えないって事に行き着くんですよね。
シラーさんの最初の話にでたんだけど、機械の発達で、今までより労働者が必要なくなってきているのは世界全体の流れです。これからもっと進むでしょう。だから、この失業状態を、ピンチではなくチャンスとして捉えるべきだというような話にもなりました。でも、日本でも多いけど、仕事をしなくなって鬱になったり、何をして良いかわからなくなるような状況がドイツでもあるようです。もちろん保障がきちんとしている、国家など大きな枠のシステムがこのためには不可欠だけど、その場合に、実りある人生を進めるには何が必要なのかという話。
時間があって、やることが急に目の前からなくなったときに、自分の人生を更に豊かにするために何かをはじめられるというのも、こういった生命力ではないかと思います。
そして、こういった教育を進めていくと、Ehrfurcht(畏敬), Dankbarkeit(感謝の念), Andacht(帰依)、これらのことを感じられるようになってくる。前述の通りこの三つは、思考という作業を進める上で、人智学では極めて重要な三つのプロセスなんですね。思考していると自分で思っている人のほとんどは思考習慣に陥っているというがシュタイナーの主張でね。
 
僕はシュタイナーの論文や講義はもちろん日本語で読むから、元のボキャブラリーがわからなくて困ることが結構あるんですよね。元はもちろんドイツ語で、シュタイナーの話をドイツ人とするときはドイツ語でするわけで、でも僕が人智学的ボキャブラリーをまだあまりそろえていないので、ドイツ語ー>日本語になっているものを日本語ー>ドイツ語と戻すときに違う言葉に戻しちゃってうまく話が通じない事があるのです。「帰依」もAndacht以外にbekehrenとかergebenとかhingebenとかいろいろあって、でもその元のボキャブラリーにたどり着くのも、その講義の日付とかを記憶していれば、そのドイツ語テキストを買って調べりゃいいんだけど、そんなことしている暇に別の講義を日本語で読みたいって感じですから。
で、帰依がやっぱりAndachtだとわかったのも良かった。些細なことですけど、今日の収穫の一つ。
講演を聞いて、こんなに気持ちが高揚したり感激したり、という経験は今までありませんでした。すばらしい講演だった。やっぱりドイツ語の壁は厚くて、100%は理解できない上に、難しい話でもあって録音してるわけでもないですからね。こうやって書くと、とりとめない文章になっちゃう。すいません。
自分のために書いている部分も大きいです。書くことで頭を整理しているというような。
そしてね、シラー氏がまたおもしろおかしく話すんですよ。たとえとかがうまくてね。何度笑ったことか。ある種、芸人だなぁとおもいます。
せっかくこんなすごい人がゲラに来たんだしと思って、ちょっと話をしに行きました。
ゲラの設立教師だったはずのハース氏がシラー氏にゲラの状況を手紙で報告してシラー氏がどう反応したかを聞いていました。このシラー氏とハース氏の手紙のやりとりを知るのは、僕ともう一人しかいない。ちょっと内緒なんです。で、ゲラの状況を憂いて、一度は「僕もシラー氏に手紙を書こう」と思ったんです。書かなかったけどね。こういう前段もありまして、個人的に話をしたかった。
もちろんその手紙のことは言いませんでした。ハース氏が僕をこの運動に引っ張り込んだこと、ハース氏が僕に歌曲を書いてくれてこの間初演したことなどを話すと「それは是非聴きたかった。録音ありませんか?」というので、CDを作って送ることにしました。ハース氏に送るために、この間CDに焼いたところだったのでちょうど良い。
訛りのない、とてもきれいなドイツ語だと褒められちゃいました。嬉しかったね。

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