明日は「コシ・ファン・トゥッテ」のプレミエ

ずーっと日記が書けませんでした。コメントをいただいたときにお返事するのが手一杯で。今日、やっとオフになったのですが、稽古が込んでいたことと、その稽古がアルテンブルクであったため、朝と夜の稽古の間にアルテンブルクからゲラまで車を飛ばして戻らずにアルテンブルクに残っていたので、ネットにつながる時間がほとんどありませんでした。この稽古と稽古の間の時間は夏のデュオ・リサイタルの台本を書いていたりして、もう本当にフル回転。


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いやぁ、色々大変だった。でも、とにかく昨日はGPで、明日はプレミエ。よく頑張りましたよ。
最初の写真は舞台稽古の様子です。フィオルディリージとドラベッラが稽古着だけど、舞台の感じはこっちの方が良くわかると思います。金色の大きな枠で舞台が囲まれていますね。このストーリーが「劇中劇」であることを象徴しているのだと思います。


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こちらの写真の方は、HP(ハウプト・プローベ)で、ちゃんと衣装を着ている方です。デジカメで撮った動画から取り出しているから解像度がかなり低いですが。
 
今回、衣装は例外なくとても美しく、キャラクターもはっきりしていて良いです。若い衣装家の人でどうもこれがデビューらしいんだけど、素晴らしい仕事をしてくださったと思います。多分僕より若いと思われる女性の衣装家でね。
舞台装置もきれいですね。こちらもこれがデビューの女性装置家。元々の予定は演出家も女流のズュンダーマンのはずだったので、女性で固めたチームだったのですが、ズュンダーマンの立ち稽古数日前のキャンセルでこれも変わってしまいました。大体これ、すごく無責任ですよね。本人からじゃなくてアシスタントが偶然知ってけしかけたからはっきりしたことで、そうでなかったら立ち稽古開始当日になってキャンセル、なんてこともあり得た話なんですよね。前代未聞だ。
装置はね、きれいなんだけど、使う側からすると問題がかなりありました。八百屋になっているんだけど、そのせいで、どの出入り口も殿所で段差があるわけです。しかも奥へ向かってだけでなくて右に向かっても上がっている八百屋舞台なので、その段差がドアによってそれぞれ違う。その上、どのドアも高くなっていて階段がすぐ外側にあるわけです。そして、外観を優先させたのだと思うけど、ドアの敷居が半円形になっていて、これまた足に引っかかる。それにドアを両方開けないと、まっすぐ通れるような状態にならない。ほとんどの場合は片手、あるいは両手が小道具で埋まっているのにね。デビューと言うことだから経験がないという事で、そういう使い勝手まで気が行かなかったのは、ある意味仕方ないのだと思いますが。
おまけに僕の衣装がすごく長くて、平坦なところを歩いていてもつまずきそうになるような裾なんですね。生地も引っかかりやすい。
すべての登場、退場で、足元を見なくちゃ行けないというのは、役者にとってはかなりきついです。しかも今回は舞台稽古が極端に少なかったしね。
日本舞踊の花柳千代先生が、もう口を酸っぱくして言ってらしたけど「舞台は出(登場)で決まるんだよ」って、ほんとです。だから、出の時の役者の表情、状況にかかわらず「転ばないように気をつけている」のでは、芝居の表現が何割引かになってしまいますね。
ドイツの舞台を見ていてすごく気になるのは、オペラハウスの規模にかかわらず、「退場」がまずい役者が多い、ということです。舞台から去るのは、役者の事情としては「舞台から退ける」という、極めて消極的な行動なわけですが、芝居の内容としてはどこかに行く用事が出来たりと積極的な行動として去るわけです。ここがきちんとしていないケースがものすごく多くて、舞台から去る最後の数メートルはもう体が「休め」になっている人が本当に多い。もう気持ちとしては演じるのをやめてしまっているわけです。
 
この舞台装置の出入り口の不備はこういう傾向に拍車をかけるわけですね。あと、この「まずい退場」が習慣になっている役者にとっては、この出入り口の不備はそれほど気にならない、という事もあります。足下を気にしていることをお客さんに悟られたくない、と特に思わないわけですからね。
 
・・・やっぱり文句を言ってしまった。いやぁ一事が万事こんな感じで、稽古期間中、メンタルコントロールが大変でした。まぁこれ日本語の日記だし、同僚が読むとは思えないから書いちゃいますけどね。
演出を急に引き受けたフーゴー・ヴィークは、前にも書いたとおりこの劇場のバス歌手なんですね。ハレの音大で声楽科学生向けの演出の授業を持っているし、演出自体もたくさんやっている演出家でもあるのですが、僕にとってはちょっと彼との共同作業はきつかった。いい人なんですけどね・・・。僕も同僚として大好きな人だから、喧嘩したくないんだけど、稽古場では良い舞台を作る責任が優先されますからね。問題があるときに黙っているわけにも行かない。
急に引き受けて準備期間が短かったことは同情するけど、本来彼はこのプロダクションに元々演出家として応募しているのです。だから、全然準備していなかったわけでもない。言うことがくるくる変わるのは、場合によっては仕方がないし、動きが変わるのはまぁいいのです。表現する内容がどんどん変わって、何故変わったかの説明がなかったりすると、歌手は困る。だから聞くんだけど、ちゃんとした返事をもらえない。
演出内容、コンセプトに関しては、ある時点からはまったく触れるのをやめました。ドイツできちんと扱われることの少ない、このコメディア・デラルテ、イタリアの喜劇のスタイルですが、フーゴーはこれに対しては敬意を払っていて、これで僕はある意味すごく期待したんだけど、それが良くなかったのかもしれない。
コメディア・デラルテでの一つの重要な約束事は、物語が24時間のうちに終わらねばならないことで、これは「フィガロの結婚」でも「セヴィリアの理髪師」でも「ドン・ジョヴァンニ」でも同じ事です。で、時間への切迫感がストーリー展開のエネルギーの重要な一部なんですね。この「コシ・ファン・トゥッテ」の場合は、賭の期限が24時間という事です。「フィガロの結婚」でいうと、フィガロとスザンナの結婚前夜なわけで、伯爵にとってはスザンナ獲得が課題、伯爵夫人にとっては伯爵の愛を取り戻すのが課題、スザンナとフィガロにとっては結婚を滞りなくすませるのが課題・・・と言うわけです。
これがドイツではかなりないがしろにされていて、まぁフーゴーはこれをきちんと理解してくれていたので、この点は良かったんですけどね。
 
一番僕が共感できなかったのは、これまたドイツで良くあることなんだけど、作品を完全には受け入れないところを出発点にしているところです。モーツァルトに関してはドイツでは神格化されすぎの傾向があると思うけど、それでも一つ一つの作品は、どうも「いちゃもんをつけたがる」解釈者が多い。たとえば、このシーンは台本に問題があるので、演出で補わなくてはいけない・・などなど。
作品の問題、弱点を何とか見つけ出してそれを指摘することによって自分の解釈の存在意義を見いだそうとしているように僕には思えるが、これは「再現創造」あるいは「追創造」の基本的姿勢としてスタートから間違っているように思うのです。何かを深く理解しようとしたときは留保のない受容が基本だと僕はやっぱり思う。これはシュタイナーの言っていることでもありますが、僕がシュタイナーを信用できると思った大きなポイントでもあります。
具体的には、2幕フィナーレの直前にあるレチタティーヴォ。ここで、デスピーナが「自分が公証人を呼びに行く」と言っているのに、実際に来るのはデスピーナが変装したニセの公証人です。何故彼女が「呼びに行く」と言いながら、呼ばずに自分で変装したのか、この理由がきちんと示されていないのが、「この作品の演劇としての構造ミスだ」と言って、コンセプトのかなり中心に近いところに持ってこようとしているのです。
でも、変装というのはコメディア・デラルテではおきまりの手で、必ず使われます。セヴィリアの理髪師でも伯爵が兵隊に化ける、アロンゾという音楽教師に化ける。「フィガロの結婚」でも伯爵夫人とスザンナが入れ替わりますね。「ドン・ジョヴァンニ」でも、ドン・ジョヴァンニとレポレッロが入れ替わります。「コシ・ファン・トゥッテ」では大体メインコンセプトが変装なわけだ。だから、すごい遠慮のない言い方をすると無理矢理作品のあらを探している感じがするわけです。へんに研究熱心なんですよね。
モーツァルトの手紙とか研究書とか色々読んでいるんだけど、立ち稽古で変な指示をするなぁと思って確認してみると、楽譜のト書きを読み落としているところがいくつもあるのですな・・・。手紙とか研究論文より楽譜をよく読んで欲しいというのが正直なところです。
そして、この作品を全面的に受け入れるところからスタートして欲しい。その上での解釈、アレンジならば僕は心から納得できるのですが。
 
でも、この辺のコンセプトに関する意見を言うのはある時期からやめました。きりがないし、フーゴー自身はいつも「意見を聞かせて欲しい」というのだけれど、言っても結局はあまり耳を貸してもらえない感じなので。
究極の言い方になりますが、僕は歌手であって演出家ではないので、最終的に彼がやって欲しいことをやるしかないわけです。
でも、「やれ!」と言われればやるしかないんだけど、いつも「こうやって欲しいんだけど、反対じゃない?」みたいな言い方だから、「いや、反対です」って言いたくなっちゃうでしょ。
演出家が「俺はこうしたいんだからやってくれ」と言われれば、僕は必ず従います。でも演出家はそれを言うことで責任を負うわけです。はっきりとコンセプトを打ち出して、反対する者がいようがそれを貫く事は、そのコンセプトに対して責任を持つと言うことでもありますからね。
そうなった場合は、そのコンセプトの中で僕のファンタジーを展開する、と言うのが僕の仕事になるわけですし、事実それはやってきています。でも演出家がへんに民主主義で芸術をやろうとすると「納得した振り」は出来なくなってくるんですよね。


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明日は、もう一つの意味でもイベントです。健登の誕生日なんですね。明日で6歳になります。今回もこのクソ忙しい中、ほとんど意地になって木のおもちゃ作りました。簡単なものですけど。
以前のエントリでも 触れた吉良さんの「シュタイナー教育、おもちゃと遊び」に載っていた「木馬(きうま)」です。

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