Scarpia -Tosca-

久しぶりのエッセイです。何年かぶりじゃないだろうか・・・なんだか書くのも緊張しちゃいますが・・・。長い文章になりそうなので、日記でない形で書いてみようと思い立ちました。

このプッチーニのオペラ「トスカ」は言うまでもなく、名作中の名作で、世界中のオペラハウスで繰り返し上演されているヒット作でもあります。と同時に、主役3役はどれをとっても音楽的、また芝居的にも難易度が高く、キャスティングをするのは難しいオペラでもあります。声楽的には3役とも大変ドラマティックで、細い声の歌手では務まりません。逆に言えば「歌手冥利に尽きる役」でもあるわけです。


僕はこのスカルピアはもちろん初役です。実は勉強したことは過去にありますが。もう20年くらい前になりますが、芸大の学部生だったときにオペラ実習でやったのです・・・。懐かしいなぁ。今も仕事でご一緒させていただいている指揮者の現田茂夫さんが初めて講師としてオペラ実習で指導をされたのが僕らのクラスで、卒業したての先輩で将来を嘱望されるスターであった現田さんが指導してくださると言うことで、学生の僕たちはみんなすごく興奮していました。その現田さんと今でも一緒に仕事が出来ているというのは、よく考えたらすごく幸せなことですね。
その時の演出は、平尾力哉先生。僕はその後、芸大の大学院オペラ公演「ドン・ジョヴァンニ」と、日本R.シュトラウス協会と東京オペラプロデュースの合同公演の「ナクソス島のアリアドネ」でご一緒させていただきました。
その平尾先生がスカルピアのキャラクターについて話してくださったことは、今でも強く僕の中に残っています。「彼は、本当に正直な人間なんだ。例えばジェルモンよりも」
 
サディスティックなやり方でトスカに迫り、最後には殺されてしまうわけですが、これはスカルピアにとってはこれしかあり得ない愛情表現というか、自分の欲望の実現への態度だったわけです。
これは大学学部生だった僕にとっては、すごくショックなことでした。当時、僕はオペラのキャラクターをよくあるパターンでしか理解できずにいて、その人間の中にうごめく衝動や渇望などをキャラクターとして活かすなんて事は全然思いつきもしなかったのです。
言ってみれば、悪者は悪者。女たらしは女たらし。そういう大雑把な分類で考えてしまっていたわけです。もっともほとんどの人はそういうところからスタートするように思うし、僕が変わっていたとは思わないのですが、そこに平尾先生の一言がガーンと響いたという事です。
 
例えば「悪者が自分の渇望に対してどんなに誠実に行動したか」なんていう価値観はなかったわけです。これ以来、こういう視点が芽生えて、色々な役の解釈がぐっと面白くなって来ました。

引き合いに出された、「椿姫」のジェルモンという役も、誤解されることが多い役です。主人公のヴィオレッタに一件理解を示して同情したように見える二重唱を歌うので、「ジェルモンはいい人だ」みたいな安易な共通認識が、特にアルプスの南側ではよく見られるような気がするのですが、これは全然違うと思う。ジェルモンはすごいエゴイストで、自分の家族のことしか考えていません。
その証拠に、二重唱の中でヴィオレッタが「死にます!」と言うと大あわてして、説得にかかり「生きなさい」と歌うのですが、これは死んで息子の美しい思い出になったりしたらえらいことだからです。そのエゴイストが自分のエゴとして歌う「プロヴァンスの海と陸」だから説得力があるわけで、あれを普遍的な父の愛情みたいに表現されたら、意味がないのです。・・・うちの劇場オーケストラのオーボエ奏者の女の子が、結構演出にも興味があるみたいで時々話しかけてくるんだけど、いまだにこの「ジェルモンが悪いやつ説」に納得いかないらしくて、トスカのプレミエの後にもやっぱり納得いかないと話しかけてきたっけなぁ・・・。
あと、似たパターンが「蝶々夫人」のシャープレス。彼も、最終的には蝶々さんを捨てるわけです。一般的なモラルは持っているから、ピンカートンを叱責はするのですが、最終的に文化の壁もあるのか、蝶々さんの心情や置かれた状況を深く理解する準備も努力もない。みんなに捨てられた蝶々さんが自殺するから本当に悲劇なわけです。これは昔、僕がシャープレスを歌ったときに演出家となかなか意見が合わなかったポイントでもあります。
 
こういう、役の置かれた状況や、行動の動機がどこにあるか、という細かい分析をするようになったのは、この平尾先生の言葉に触発されて以来ではなかったか、と思います。そういう意味で懐かしいだけでなく、このスカルピアという役は僕にとって意味が大きい。
 
さて、そのスカルピアを、ドイツの劇場で実際に歌うことになって、ある意味感慨深いですが、感慨に浸っている余裕などはどこにもなくて、今回は激しい演出との戦いでした。
日記にも書いたのですが、最高音のあるフレーズの直前にトスカに突き飛ばされてはいつくばってその最高音を歌う羽目にもなりましたが、それだけじゃなくて、かなり声を荒げるような箇所があって、それはやっぱり声楽的にはかなり喉の負担が増えてありがたくないわけです。でも、演出コンセプトの実現を考えると、やっぱり避けては通れない・・・。最後まで、一番良いバランスはどこかと探しながら稽古を進めました。
今回の演出家、マティアス・オルダーグの持っていたコンセプトで僕が非常に面白いと思ったのは、この日、スカルピアは警視総監になって八日目という事実。そして、キャリアアップをねらって野望に満ちている彼が、ぐいぐいローマ市民を締め付け始めた矢先だったわけです。
彼の地盤は盤石なんて事は全然ない。新米で、成果を上げることを期待され、ダメなら左遷もあるかもしれない。そんな中で起こったドラマなわけです。僕が見てきたスカルピアはどれも、もう何年もあの執務室の椅子に座り続けたような安定感のあるスカルピアでしたが、これは事実誤認なわけです。
そして、誤報であったメラス女王の軍隊の勝利を信じてテ・デウムを歌ったのに、それが間違いだと知ったとき、彼にとってキャリアはもうどうでも良くなる。破れかぶれになって、残るのは歌姫トスカを征服する欲望だけです。そして彼は野獣としての顔をためらいなくさらし始めるわけです。ここでスカルピアは変身しなくてはいけない。
今回のコンセプトでは、執務室の後ろに、部下の警察官達があつまる情報処理室みたいなのが見えるようになっている舞台装置で、そこから部下はスカルピアの様子が見えるようになっています。これは大変面白いのですが、トスカに迫り始めたスカルピアを誰かに見られる可能性があるという状況は僕には納得がいかなくて、演出のマティアスに「後半では後ろの部下の部屋の照明を消してはどうか」と提案して受け入れられました。良かった。そうしないと、スカルピアがものすごくうかつな事をし得る人物と言うことになってしまいますからね。
 
まだ批評は出そろっていませんが、今日見かけた批評に嬉しい記述がありました。

・・・Dass man vor allem im 2. Akt gern hinwegsieht über Biederkeit und gelegentliche unfreiwillige Komik, das verdankt Oldags “Tosca” vor allem zweien ihrer Sänger-Darsteller: Lucja Zarzycka, die als Titelheldin nicht nur ein anrührendes “Vissi d´arte” singt, sondern sich auch ohne Rücksicht auf stimmliche Verluste in Eifersucht, Wut und Hass hineinsteigert; und Teruhiko Komori als ein Scarpia, dessen Unmenschlichkeit sich in kleinsten Gesten äußert. Als er Tosca gestattet, ihren Cavaradossi ein (vor)letztes Mal zu sehen, beobachtet er die Umarmung der Liebenden mit distanziertem Interesse wie ein Forscher, der ein seltenes Insekt aufspießt. Pointierter kann man kaum darstellen, wie weit sich der Sadist von den Menschen und ihrer Gefühlswelt entfernt hat.・・・

 

(前略)特に2幕で見る事が出来た、愚直さと時折の意図せぬ滑稽さ、これはこのオルダーグ演出の「トスカ」は二人の歌手・俳優のおかげである。その二人とは、まず感動的な「歌に生き、恋に生き」のアリアを歌っただけでなく、嫉妬や怒り、憎しみの表現の中で声の危険を顧みずにタイトルロールに深く入り込んだルツィア・ザルジュツカ、そしてスカルピアの非人間的な面をこれ以上なく小さな動きで語った小森輝彦である。
スカルピアがトスカに、恋人カヴァラドッシとの最後(実際にはもう一度会うが)の面会を許したとき、彼は恋人達の抱擁を距離を置いた興味を持って観察していた。まるで珍しい昆虫を標本にする研究者のように。このサディストが、如何に人間と人間の感情の世界から離れてしまっているかを、これより正確に表現することは全く不可能である。(後略)

 
これを読んで、正直驚きました。ここの芝居は、自分で思いついてGPから足した芝居だったんですが、全く歌っていない、聞き役のところの芝居がこんな風に注目されているとは。でも、なんだか20年前に僕の目を開いて下さった平尾先生に、もしかしたらこういう形で恩返しが出来たんじゃないかな、と思うととても嬉しかったです。

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