久しぶりの現代音楽、しかも委嘱初演でした。大変でしたが、得るものは本当に大きかった。
ずっと日記も書けませんでした。終わってからやっと劇場の仕事が落ち着いたので、たまっていた別の仕事に取りかからなければいけなかったこともありますが、すこし気が抜けてしまった感じです。
この作品のことは、ちょっときちんと書きたいので、ざっと日記で通り過ぎるだけになるのは残念と思い、時間を取ってエッセイとして書くことにしました。
批評も多く出ましたが、これは改めてご紹介することにします。
作曲家のリヒャルト・ヴァーグナーの妻、コジマ・ヴァーグナーへのニーチェの実らない恋愛感情を主なモチーフとしたこの作品、コジマへの想いが作品をドライブする最大のモチーフなのでタイトルは「コジマ」ですが、舞台で作品をドライブしていくのは、僕の演じたニーチェ役。正直なところ、ニーチェという人物に対しては、この作品に出会うまで格別の興味を持っていたわけではありませんでした。演出家のマルティン・シューラー氏も「ずっとニーチェの著書は読まなくちゃ読まなくちゃと思っていたんだけど、目の前の仕事に追われて出来なかった。でも、今回この作品を手がけることになって読まざるを得ない状況になって、大変ありがたい」と言っていました。
僕はニーチェというと、僕の大好きなR.シュトラウスの作曲した交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の原作者とか、ニヒリズムの提唱者とか、その程度の、一部誤った認識しか持っておらず、まじめに取り組んだのはこのプロダクションに関わってからでした。
調べ始めると、大変面白い。というか、面白がるという態度はいささか不謹慎では?と思えるくらい、ニーチェの想い、人生、思想家としての仕事ぶりなどが僕の胸に迫ってきました。僕が人生の師と仰いでいる(?)ルドルフ・シュタイナーも、ニーチェにただならぬ共感を持ち、ヴァイマールにわざわざニーチェに会いに行っていることもわかりました。この時ニーチェはすでにまともな精神状態ではなかったようですが。そしてシュタイナーは「Friedrich Nietzsche, ein Kämpfer gegen seine Zeit」(フリードリヒ・ニーチェ、彼の時代に立ち向かった闘士)という本を書いています。これは日本語版を探したんですが、かつて出版されてはいたものの絶版になっており、仕方なくドイツ語版を購入して読み始めました。読み切るには時間が全然足りなかったのですが。
この本では主にÜbermensch(超人)という概念をめぐって、シュタイナーとニーチェの二人の思想の違いや共通点について述べられています。これについて書き出すとこれだけで終わっちゃうからこれはまた今度。でも、ニーチェの存在が、今の僕にとって大切な複数のテーマとかなり密接にからんでいるので、今この役を歌うことになったというのは偶然とは思えませんでした。詳しく書かないけど、一つはゾロアスターね。ドイツ語でのツァラトゥストラですけども。キリストとゾロアスターの関係も丁度今読んでいる本で詳しく述べられていて、僕はこの本に夢中になっているのですが、ここからオペラ「コジマ」の最後の踊りの前の場面で、僕がはりつけになったキリストになろうと思いついたのでした。・・・なーんて、この演出を見ていない皆さんにはわからないですよね・・・。見に来てくださーい。プレミエには日本人の方も数人来てくださいました。その日はお会いできませんでしたけれども。
ニーチェというのは、完全に自分の意志で能動的に生きようとする「超人」である事を実践することで十字架を背負ったのではないかと思います。この「超人」というのは、自分に「自己を克服せよ」命じ、それを実践し続けることで自己鍛錬を続け、最後には快楽だけでなく苦痛をも肯定する境地に達すると言う超人の最後の段階は、「幼子である」という主張で、自分の意志の通りに行動し全てを肯定できる境地である、とあります。これはシュタイナーが「新しい美学の父、ゲーテ」と言う講義で触れているシラーの主張「人間は遊んでいるときだけ本当に人間でいられる、そして本当に人間でいられるときだけ遊ぼうとする」と深くつながっているように思えます。これは芸術活動の根底にある衝動を「遊技衝動」として定義づけようとしたときの表現ですが。だから思想家としてのニーチェが作曲もする芸術家でも合ったことは必然のように思えます。
さて、ニーチェはキリスト教に対して、ずっと敵対的な態度を取った人ではありますが、この「十字架」のイメージから、僕は彼をキリストとかぶせてみたくなったのです。HP(ハウプトプローベ)でこれを、僕からのオファーとして出してみたのですが、演出家からはフィードバックが何もなかった。これはこの演出家との共同作業の中で一番失望した瞬間でもありました。あんなに大切な場面で、短い時間(数秒)とはいえこのキリスト教社会の中でこの上なく大きな意味合いを持つ芝居のエレメントを僕が提供したことに対してイエスもノーもなかった。言ってみればこれがこの演出家との今回の仕事での関係や稽古場の雰囲気を示しているエピソードといえなくもない。
演出を見ていない皆さんに言葉だけの説明も難しいこともあるので、考えたんですが少し写真を出すことにします・・・。僕の腹の肉にはあまり視線を向けないようにして下さい・・・。ちゃんとした舞台写真はまだ入手していないので、クオリティーは低い写真ですが。演出の様子を知っていただくに配意と思います。
最初の写真は、オペラ開始30分前から始めている、サイレントの芝居です。つまり開場した時点から僕らは舞台にいてずっと演技をしているのです。これ、結構体力的にはきつかった。僕は80分のオペラの間、ずっと舞台にいるので、それプラス30分、開始前に舞台にいなくてはいけないのは集中力の持って行き方からしても大変でした。効果はあったと思いますけれど。この写真のように、この前芝居の間はずっと紗幕にニーチェの名言が映されます。ここは丁度、さっきも話題にした教会とのことですが、「信仰とは、真実を知らないでいようとすることだ」とあります。
設定は、実際にニーチェが晩年入院していたイェナ市の精神病院です。ゲラ市から車で30分の近郊都市で、僕はヴァルドルフ小学校の理事会などでよく行く街です。2枚目はその患者仲間(?)たちに囲まれているところ。ニーチェは哲学者ぶりを発揮して演説をぶっているところと言えばわかりやすいかな。ちなみに、ニーチェ役が歌うテキストは全てニーチェが実際に残した言葉になっています。ここも、僕がニーチェに感情移入しやすかった理由の一つかもしれない。
そして「トリスタンとイゾルデ」の音楽が響くと、ニーチェは激しい頭痛に襲われます(3枚目の写真)。実際にニーチェは長い間、頭痛を伴う激しい発作に悩まされました。このオペラでのニーチェも、かなり頭痛に襲われます。特に、賞賛していたヴァーグナーと決別する理由の一つにもなった「パルシファル」の音楽が響くと激しい発作に襲われます。トリスタンというキャラクターは、ヴァーグナーを賛美していた頃のニーチェにとっての憧れのマイスター、ヴァーグナーの象徴なんですね。そしてこのあとニーチェのオペラが始まるわけです。
4枚目は、その自作のオペラを陶酔しつつ指揮しているところ。ベンチの上にいるのはコジマの最初の夫、ハンス・フォン・ビューローです。そして中央奥のドアの向こうにいるのはヴァーグナー。召使いの女の子を部屋に招き入れて、作曲のインスピレーションをその女の子からもらっているところ、という感じかな。それに見とれるコジマ。これらは全てニーチェ作曲のオペラの登場人物です。
そう、プロダクションの解説ページに一応書きましたけども、このオペラはラインスベルク城で見つかったニーチェ作曲の未完のオペラ草稿をもとにしています。スケッチ程度のものだと想像しますが(発見して、今回統合、補完・作曲したマットゥス氏はどの程度ニーチェの作曲部分があったのかを明らかにしなかったので)ここからマットゥス氏の壮大な計画が始まったわけです。
Dame mit Schleier(ヴェールを着けた夫人)と、ビンスヴァンガー医師以外の役は、全てニーチェのファンタジーの産物です。そして、現実のこの二人の人物が出てくるシーン(つまり病院の中のシーン)とニーチェが支配するニーチェのファンタジーのシーンが交互に出てくる構成になっています。
続く第3場では(5枚目)ニーチェが自分の置かれている状況を悲観し、発作を起こして暴れ出し、椅子に縛り付けられてマッサージなどされています。後ろの椅子を倒したり、楽譜をまき散らしした跡が見えますでしょうか。
この演出の成功の理由の一つは、見事な舞台装置と照明演出が挙げられると思います。6枚目の写真で右側から壁がせり出してきていますが、この転換は圧巻でした。イエナの精神病院のホールが一瞬にしてミュンヘンの王立銀行になってしまいます。コジマが夫ヴァーグナーのためにルードヴィヒの擁護を楯に銀行からお金を持ち出すのを市民が阻止しようとしているシーンです。スモークと照明で、全く違う空間に切り替えることに成功しています。そんな中でもニーチェは書き物机で黙々と作曲を続けています。
7枚目は、そのルードヴィヒ二世の登場。衣装とメイクも良かった。これ、2005年夏の二期会公演「フィレンツェの悲劇」でも衣装を担当したヘンリケ・ブロンバーの衣装です。かつて一緒に仕事をした仲間との再会を喜びましたが、結局彼女が衣装を担当すると僕は脱がされる羽目になるんだよな・・・。
8枚目は、僕が一番好きなシーン。第9場ですが、自分のファンタジーの登場人物である若き頃のコジマに、思わず迫っていくシーンです。
自分にとっては操り人形なはずなのに、口づけをしようとすると顔を背けられ、自分の中に刻まれた過去を変えることが出来ないことに苦しみもがきます(9枚目)。ほとんど寝ころんだ姿勢で、高音での超弱声を要求されるシーンで技術的には大変でした。
続く10場では、若き日のニーチェ自身が登場します(10枚目)。後ろに投影されているのは、若きニーチェがたずねたヴァーグナーとコジマの隠れ家です。ここで、ニーチェがコジマに誘惑されています。ここでコジマが服を脱がしたことが、あとでニーチェが服を脱ぎ捨てディオニュソスの踊りを、半ば老いたコジマへの当てつけのように、しかし若き日のコジマへの真摯な愛の表現として踊るシーンにつながっていくのだと思います。作曲家はこのコジマがニーチェを誘惑して「脱がす」のはやり過ぎではないかと最初思ったようですが、その後の流れを見て考え直したようです。ここでも過去を変えようがないニーチェは苦しみつつもそのいきさつを作曲し続けます。
11枚目は、現実の病院のシーンで、自分がニーチェにした行為をオペラによって暴かれてはたまらないと、精神病院を訪れて何とかニーチェが作曲中のオペラをなき物にしようとする老いたコジマにつかみかかろうとするニーチェ。看護士に取り押さえられます。
そしてヴァーグナーの死(12枚目)。ニーチェは「自分の出番だ」と思ったのです。テゼウスをヴァーグナーに、テゼウスを待ち続けたアリアドネをコジマに、そしてそのアリアドネを迎えに現れたディオニュソスに自分を照らし合わせたニーチェ。ヴァーグナーの喪に服するコジマに黒のヴェールをかけてコジマに迫ります。ここの音楽は、多分ニーチェが引用したのだと思いますがヴァーグナーの神々の黄昏からジークフリートの葬送行進曲が使われていて、音楽的にはすごい迫力です。(歌う方は大変なんだけどね。オケが厚くて)
ところが老いたコジマが急に現れて、ニーチェのファンタジーの中の若き日の自分を守るべく、ニーチェに迫ります。その老いたコジマを駆逐すべくニーチェが最後のカードとして出すのが「ディオニュソスの踊り」なのです。この13枚目の写真では服を脱いでいるところですが、現実とファンタジーが初めて交錯するシーンで、コジマが総監督を務めるバイロイト音楽祭に乗り込んでその舞台で自作のオペラを自演して自分で踊る、いわば舞台の乗っ取りみたいな事で、こういうやり方で老いたコジマに復讐しようとするのです。バイロイト音楽祭の観客達は盛大な拍手(動きはスローモーション)で迎えます。そして前述の十字架のシーンが来ます。
そしてその後、初めて直接のストレートな言い方で「アリアドネ、おまえを愛している!」と告白して踊りを始めるのです。
この踊りがね・・・大変でしたけどね。あちこちの批評で褒められているので、まぁ良かったのでしょう。歌手が踊るという条件で見てくれているしね。この写真もジャンプですが、ジャンプがえらく多かったなぁ。終わると、もう肩で息をしている状態。
でもこの辺はマットゥスさんさすが!と思うのですが、踊りのあとはもう歌う箇所はないのです。台詞だけ。その意味では心おきなく踊れました。
そして、ぜいぜい言いながら、呆然と立ちつくす老いたコジマを横目に見つつ、若き日のコジマに求愛します。
そして、献花に覆われたヴァーグナーのもとへ走り、花を投げ散らかして「俺の挨拶を受けろ!悪魔め!」とさけび、ヴァーグナーを侮辱したあとに勝ち誇って若きコジマのもとへ走ります。(ここもスローモーション)
しかし最後はやはり老いたコジマに行く手を阻まれます。彼女の合図でパルシファルの音楽が鳴り響き、激しい発作に襲われたニーチェは、自分の作曲した楽譜のある机に何とかたどり着き「Meine Frau Cosima hat mich hierher gebracht」(私の妻コジマが、私をここに至らしめた)と言い残し、息絶えます。
最後は、スキャンダルを何とか防ごうと、楽譜をとにかくかき集めた、老いたコジマがその楽譜を抱えた姿のまま閉まった幕の前に立ちつくしたあと、暗転となります。
今回のプロダクションは、プロダクションとしても大成功だったと思いますが、舞台表現者としての僕にとっても記念碑的なプロダクションだったと思います。多くの人が「今まで見たあなたの役の中で一番印象的だった」と言ってくれました。僕も何となくそれは実感できます。お客さんがニーチェの苦しみや衝動を僕の体を通して共感、追感してくれているという実感があったのです。これは舞台表現者としては冥利に尽きることです。幸せな舞台だったと思います・・・前述の稽古の内容、雰囲気の問題はあるんですけどね。まぁそれは置いておいて。
どうも僕には、こういう役柄が合っているのではないだろうか、と思います。背負っている運命のために苦しみ、状況を打開しようとするのだが果たせず・・・という感じでしょうか。リゴレットもそう。やはり現代オペラで、98年の日本初演を歌ったヴォルフガング・リーム作曲の「ヤコプ・レンツ(邦題は「狂っていくレンツ」になっていました」のタイトルロールもそんな感じでした。そういえばこのレンツの時に十字架背負うポーズを作ったんだった。「マタイ福音書」のテキストがそのまま引用されるところがあったのでヒントを得たのでした。「神よ、何故私を見捨てになるのですか」というところです。今は亡き実相寺昭雄監督の演出でした。
リゴレットに関しては、いまだに劇場の友の会の人とか同僚が「なんと言ってもリゴレットが一番だった」と言うんですよね・・・この劇場へのデビューの役なので、それが一番良かったという事は、俺はそれから7年間進歩していないと言うことか?なんて考え込んじゃったりもしましたが、今は役柄との相性という部分が大きかったのではないか?と思っています。
今日劇場に問い合わせてわかったのですが、ゲラでの公演は6月1日の一回を残すだけ。そのあとは来年の3月にアルテンブルクのプレミエがありますが、アルテンブルクでの上演も3回しか予定されていません。これは本当に、本当に残念。
演出の良さも手伝って、複雑な設定や現代音楽の取っつきにくさがあるにもかかわらず、特に音楽ファンではないお客さんが多かった二回目の公演もすごい反響だったのです。これはもっと上演回数を増やして欲しかったなぁ。マットゥス夫妻は二回目の公演にも来てくれていたのですが、「プレミエよりずっと良かった!」と感激しておられました。僕らもプレミエの時はラジオの生中継もあったし、意識していたよりずっと緊張していたのかもしれない。
とにかくゲラでのあと一公演、気合い入れていきたいと思います。
コジマのエッセイ素晴らしかったです。いくつか舞台で分からなかった点が氷解しました。今回のコジマ、筋を知らないにもかかわらず、しっかり楽しめました。2回目公演も大成功は当然ですよね。ぜひ、もう一度は拝見したいのですが、1日はちょっと都合がつきません。次回アルテンブルグに大分先ですが行きます。でも近いうちに小森さんの他の公演は勿論行きますよ。
6月3日のニコライ教会のオープンエアーのコンサートで第九のコーラスに参加します。夜ですけどね。日本からもかなり参加されると聞いています。ではまた近いうちに劇場で。
>ルオーさん
こんにちは。あれは確かに、舞台を見るとよくわかる話だと思います。その意味では演出が素晴らしく良かった。
同僚のピアニストが言っていましたが、ラジオ中継をきいていても、あれじゃさっぱり何の話かわからないだろうと。
僕も録音を聴いてみましたが、歌手の歌詞は良く聴き取れましたが、歌詞だけでは文字情報(?)が少なすぎて、視覚的な情報が補足されてやっと、具体的に筋を追えるんじゃないでしょうか。
是非またいらしてください!
先日、劇場から僕が関係している来シーズンの公演の日程をもらってきたので、近いうちにサイトにアップしたいと思います。
第九、頑張ってくださいね!
2回目の公演に参りました。演出のおかげ、そして素晴らしい演奏と演技のおかげで、現代物をこれだけ楽しめたのは、初めてかもしれません。このTeruさんの解説を先に読んでいれば、さらに堪能できたでしょう。
来シーズンもまた伺います。
>焼きそうせいじさん
ありがとうございました。
その通りですね。公演を見ていただく前にある程度説明すれば良かったですね。うーん、でもプレミエ前に種明かしするのは無理か・・。
来年のアルテンブルク公演は3月です。お待ちしています。