2006/2007シーズンを振り返って

これは日本リヒャルト・シュトラウス協会の年誌に寄稿した「劇場だより」というエッセイですが、サイト転載の許可を頂きましたので、掲載させていただきます。長文です。
 
現在のこのブログの仕様で、エッセイのカテゴリーを複数していするとエッセイの画像が複数回でてしまいますが、ご了承下さい。対策は考えます。


 
 

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僕にとって7シーズン目にあたるアルテンブルク・ゲラ市立劇場の2006/2007シーズンは、新しい総裁と首脳陣を迎えての、劇場としては再スタートのシーズンでした。どういう雰囲気になるのか、不安と期待が入り交じった中でスタートしましたが、劇場内の雰囲気としても、また数字としての業績と言う点でも良いシーズンになりました。ゲラの劇場は大掛かりな改築工事を終えて装いも新たになり、マーケティングなどの方針はかなり変わって、劇場の存在を総合的にプロデュースする感じの積極的な戦略に出ていると思います。保守的な劇場後援者のかなりの反対を押し切って劇場の名前さえも変わり、今はうちの劇場の名前はTheater & Philharmonie Thüringen(テアター&フィルハーモニー テューリンゲン)となりました。
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この名前にはテューリンゲン州をしょって建つ劇場、という意気込みがあるようです。事実、州都のエアフルトの劇場との比較で、我々の劇場は、ほぼ同じ従業員数(約300人)、9割の予算(2060万ユーロに対して1820万ユーロ)にもかかわらず、約4倍(!)の公演数(250に対する950)と1.75倍の観客動員数(10万4千人に対して18万2千人・・・ホールの大きさがオペラハウスの場合でエアフルト約800席に対してゲラは約500席と言う違いも考慮するべきですが)を誇り、この意気込みは実践に移されていると言えると思います。

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オペラの新プロダクションのなかで僕が大きく関わったものは二つ、プッチーニの「トスカ」(スカルピア役)と、委嘱初演の新作でジークフリート・マットゥス氏の作曲による「コジマ」(ニーチェ役)でした。どちらも大変好評で、新首脳陣のスタートの年に結果を出せたのは何よりでした。

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「トスカ」は、劇場新総裁のマティアス・オルダーグ氏の演出でしたが、スタイリッシュなトーマス・グルーバー氏の舞台装置と経験豊富なフリーランス衣装家のタマラ・オスヴァヴィッチさんの衣装のサポートで、大変完成度が高いプロダクションになりました。このオペラでのスカルピアの役割、影響力は彼自身が死んでしまった3幕にも及び、最後トスカはスカルピアに対して口上を切って死んで行くわけですが、このプロダクションでのスカルピアは若く、警視総監に就任して8日目、まだポストにしっかり腰を落ち着けたわけではなく、自分の保身と出世のためにガツガツしているキャラクターで、ローマ市民をしめつけるのもそういう、半ば危機感もあっての事、と言う設定。トスカへのアプローチでも大変アグレッシブで、これはもちろん僕の希望ではなくて演出家の希望なわけですが、いじめられるトスカのソプラノがこれを喜ぶわけもなく、本番でひじ鉄を食らった事もありました。これはさすがに終演後に一言いわせてもらいましたが、稽古期間から本番まで通して、こう言う舞台上の同僚との駆け引きが続くと、気持ち的にはかなりすり減りますね。お客様には気付かれてはならない部分ですが。批評も好意的で東テューリンゲン新聞では「スカルピアの小森輝彦は、彼の非人間的な面をこれ以上なく小さな動きで語った。(中略)このサディストが、如何に人間と人間の感情の世界から離れてしまっているかを、これより正確に表現することは全く不可能である。」と評されました。

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もう一つは、新作オペラの「コジマ」ですが、これはなんと、哲学者のフリードリヒ・ニーチェがオペラを書いていた事がきっかけです。ニーチェは晩年の狂気の中で、いわゆる「狂気の手紙」を大作曲家ワーグナーの妻コジマ・ワーグナーに宛てて書いています。そしてその中でニーチェはコジマを自分の妻と、また「アリアドネ」と呼んで愛を告白しています。

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ベルリン郊外のラインスベルク城の倉庫から、ニーチェ作曲のオペラの草稿が見つかり、それを発見したのが旧東ドイツ屈指の作曲家ジークフリート・マットゥス氏でした。彼はこのスケッチを補完して補作し、一つのオペラとして再構成したのです。マットゥス氏は、若きオペラ歌手の登竜門であるラインスベルク音楽祭の主催者でもあり、僕も大変お世話になっています。今回は主役のニーチェに僕を指名して下さり、僕はずっと果たせなかったマットゥス作品への参加を、こんなに素晴らしい作品の初演で実現できて、本当に幸せでした。

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ワーグナーとビゼーの音楽が多く引用されるのですが、これはニーチェが作曲した部分と言われていました(マットゥス氏はその辺の詳細は語らず・・・)皆さんご存知の通り、ニーチェははじめ作曲家ワーグナーに強く傾倒してその後批判に回ったわけですが、その愛憎半ばするスタンスをここに垣間見る事が出来ます。
このオペラの中では、リヒャルト・ワーグナーの女性関係に苦しめられたコジマが、ニーチェの真剣なコジマへの愛情を半ば嘲り弄ぶシーンがあります。それに対する復讐の意味も込めたニーチェのオペラを、コジマは自分のスキャンダルになると恐れて何とか世に出るのを防ごうとし、最後はニーチェとコジマの対決となります。自分のオペラの中のファンタジーの産物である、若き日のコジマに、ニーチェは自作のオペラの最後で自ら「ディオニュソスの踊り」で求愛します。ディオニュソス(バッカス)として自作のオペラに登場するニーチェは、テゼウスにナクソス島においてきぼりにされたアリアドネとコジマをダブらせて見ているのです。このクライマックスはニーチェの半裸の踊りで表現され、当然ニーチェを演じた僕は半裸で踊る羽目になりました・・・。
結果としてはこの踊りがドラマ的にかなり効果的だったようで、ヨーロッパ有数のオペラ雑誌である、オペルンヴェルト、オペルングラスなどでも、歌や演技もさることながら踊りを褒められてしまいました。大学院やオペラ研修所で苦手ながらも踊りをまじめに習っておいて、本当に良かったです・・・。指揮はトスカ同様、劇場の音楽総監督のエリック・ソレーン氏、演出はコットブス州立劇場の総裁でもある演出家のマルティン・シューラー氏によるものでした。
   
ちなみにこのプロダクションは、ブラウンシュヴァイク州立劇場との提携で「リング・プレミエ」と呼ばれる方法で行われました。同じ日にプレミエをするのですが、演出などのコンセプトは全く別のプロダクションで、ヨーナス・アルバーの指揮とケールスティン・マリア・ペーラー女史の演出によって上演されました。老いたコジマの役をブラウンシュヴァイクで歌ったのは、日本でもおなじみのソプラノ、カラン・アームストロングでした。彼女はこのコジマの後にすぐ日本に飛んで新国立劇場の「ファルスタッフ」のクイックリー夫人役を歌ったのではないかと思います。老いたコジマの役もメゾの役ですから、かつて元帥夫人、サロメなどのR.シュトラウスの主要な役で名声を築いた彼女がレパートリーを移しながら、存在感のある舞台姿を見せ続けてくれている事はR.シュトラウスファンとしては嬉しい限りですね。
これらオペラのプロダクション以外に、先シーズンは歌曲もかなり歌いました。それもR.シュトラウスの歌曲をです。ひとつはエアフルト近郊のツェラ・メーリス市の市庁舎内のホールにおける歌曲の夕べ、そして、ゲラの劇場のコンサートホール・フォワイエにおける歌曲の夕べです。
ツェラ・メーリスではR.シュトラウス以外にシューベルト、現代作曲家のユルゲン・クプファー氏の作品なども歌いましたが、フォワイエコンサートでは、R.シュトラウスのみのプログラムでした。
ツェラ・メーリスで、「放蕩者」というR.シュトラウスの歌曲を初めて歌ったのですが、これは声楽的に大変難しい曲で、しかも物語る感じの構成になっているので、こういう曲をドイツ人聴衆の前できちんと裁いて理解してもらえるかどうか、一つ自分にハードルを設けたつもりでした。
本番ではこの曲の後にだけ思わず拍手をされた方が多くいらして、このコミカルな歌曲の魅力を伝えられたかな、と思えて、大変嬉しかったです。
またピアニストの服部容子さんと2005年の夏にはじめた「小森輝彦・服部容子デュオ・リサイタル」の第三回目として、2007年8月21日に晴海の第一生命ホールで、数多くのリヒャルト・シュトラウスの歌曲を取り上げました。「放蕩者」をツェラ・メーリスで取り上げたのは、いってみればこのデュオ・リサイタルの前哨戦だったとも言えます。日本リヒャルト・シュトラウス協会にも後援を頂き、会員の方にもお越し頂きました。ありがとうございました。
もともとは、リヒャルト・シュトラウスの作品だけでプログラムを組もうと思っていたのですが、その際に服部容子さんのソロ曲目として検討していたリヒャルト・シュトラウスのピアノソナタが、思ったより魅力的でなく、結局はヤナーチェクのピアノソナタを入れる事になりました。
その他にプログラミングしたのはリヒャルト・シュトラウスの歌曲を28曲。こんなに多くのシュトラウス歌曲を一度に歌うのは、僕にとっても初めての経験でした。
僕にとっては、この服部容子さんとの「デュオ・リサイタル」シリーズは、自分のやりたい音楽を妥協無く演奏できる、音楽家としてすごく正直でいられる、貴重な場です。服部容子さんは演奏家としても友人としても僕にとってとても大切な人で、気も合うのですが、多分音楽的な指向が似ているのだと思います。彼女にとってリヒャルト・シュトラウスの歌曲と言うのは、決して親しみのあるレパートリーではなかったのですが、僕は何としても服部容子さんのピアノでリヒャルト・シュトラウスの歌曲を歌いたかったのです。
当日お配りしたプログラムにも書いたのですが、皆さんご存知の通り、僕は主にオペラ歌手として活動をしています。ドイツのオペラ劇場の専属ソロ歌手として働くようになって8年目、かなりレパートリーシステムにもなれてきました。
でも、僕は学生時代にはむしろ、歌曲演奏に情熱を注いでいました。意外に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、学生時代、特に大学学部生の時は、ほとんど歌曲、それもドイツリートばかり歌っていたと思います。オペラでの表現が、表面的に思えたのかもしれません。
学部二年生の時に赤坂のサントリーホールがオープンしたのですが、芸大の学生としてオープニング公演の一つである若杉弘先生の指揮によるマーラー「千人の交響曲」の合唱を歌いました。そして、このオープニング・シリーズの一環でディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ氏とハルトムート・ヘル氏による4つの歌曲の夕べが催されました。これを四つとも聴いたのですが、既にCDやレコードがすり切れるほど聞き込んだディースカウ氏の生演奏にふれ、リートへの情熱がより熱いものになった事を覚えています。
今考えて見ると、大学院時代に受けた、公開講座などで歌ったのはR.シュトラウスの歌曲が多かったです。当時からR.シュトラウスの歌曲と言うのは僕のレパートリーの中で特別な意味を持っていました。
ピアニストのダルトン・ボールドウィン氏の公開レッスンではBefreit「解き放たれて」(「地上からの開放」と言う邦題もありますね)を、ヘルマン・プライ氏の公開レッスンではHeimliche Aufforderung「密やかな誘い」を歌いました。
ヘルマン・プライ氏はたしか、このときの来日では日本リヒャルト・シュトラウス協会の例会にも登場されて、作品21の「素朴な歌たち」を演奏されたと記憶しています。このときのプライさんの演奏は、柔和でありながら強烈な印象を残し、僕はいつかリーダーアーベントでこの作品21を全曲演奏したいと思っていたのです。それがこの夏のリサイタルで実現しました。
リートの世界にどっぷりとつかった歌手が、その後オペラ歌手としてのキャリアを進んで行くのは、実はあまり簡単な事ではない、あるいは効率が良い事ではない、と思っています。演奏の際の声楽技術的な要求がかなり違ってくると言う事がまずありますが、それにも増して、表現者としての作品、聴衆へのスタンスがかなり違うと思われるからです。
技術的に言えば、オペラ歌唱とリート歌唱ではやはり作られる音響構造がかなり異なりますから、既にそこで大きな違いがあります。リート歌唱では例えばフルの音量で鳴る金管楽器のヴェールを突き抜けて行くような強い響きは全く必要ないわけです。音色優先の声作りをする事が出来ます。逆にピアノの音が一緒に鳴っているタイミングでもかなり音量を落とす事も可能ですから(ピアニストも、歌手と同様、弱音を美しく出す技術を持っていなくてはなりませんが)オペラではあり得ないような弱い音をつかって長いフレーズを歌うようなテクニックも必要になってきます。
また、多くの楽器がかかわるオペラでは、音楽全体のレガートをオーケストラの楽器にお任せしてしまって、歌手の方はブレスを頻繁にして、言って見ればブチブチとフレーズを切ってしまっても、音楽全体の響きとしてはレガートが成立する事もあります。歌手側としては長いフレージングよりも、オーケストラの響きに負けない強い響きを作るほうに専念するほうがより実際的なわけです。
これら技術的な側面以外に、表現者としてどういう態度で歌うテキスト、内容に向かい合うのか、と言う問題もあると思います。ディースカウ氏はどこかでオペラと歌曲演奏の違いは、オペラの登場人物が作品の中で「成長」する事にある、と言っておられたようです。詳しい理由付けなどには僕はまだ接していないので、細かい事はわからないのですが、歌曲が大体において一曲5分程度の長さである事を考えると、歌曲での表現は、その中の状況や人間性の変化と言うよりは、その状況を切り取って見せる、と言う感じになるのは良くわかります。人生の中の1シーン、ほとんど刹那と言っても良いくらいの瞬間を切り取って、その色を見せてくれるのがリート、と言う部分はあります。それに対してオペラの中での歌唱と言うのは、動きがある、成長も含めて感情や状況の変化がより大きいと言う事はあると思います。
僕が考えるリートとオペラでの違いの一つは、一言で言うと表現の「親密さ」です。
オペラでは、音響的な大きさがある事は前に書いた通りですが、その結果出てくる表現も大きいです。大きいと言う事は、場合によっては「ふくらませる」事が必要だったりします。誇張と言うやつですね。「どうしてオペラでは、病気の人があんなに元気に大きな声を出すの?」なんていう質問も良く耳にしますが、似たポイントかもしれません。音響的、表現的な大きさを作るために、誇張、ある意味の「うそ」が必要になってくると言えば分かりやすいでしょうか。
その点、リートの表現では、誇張はあまり必要ないです。真摯に言葉と音と作業して行くと、その雰囲気、空間が語り始めます。純度が高い表現が求められますが、パワフルな声は必ずしも必要はありません。詩を朗読するのに近い行為だと思います。あるいは子供への童話の読み聞かせでしょうか。「親密」と僕が書いたのはそんな意味です。
現実には1000人以上収容の大きなホールでもリートの演奏はあり得ますし、可能だと思いますが、その演奏の質と言う意味では、ソファーに座って周りに座った子供たちに静かな声で童話を読んで聞かせるような、そういうクオリティを持つ行為だと思います。
さて、こういった差異を意識した上での話ですが、僕が目指しているのは「オペラ歌手のリート演奏」です。二つのジャンルの違いを明確にしようと言う試みと、それを混ぜてしまうような行為は矛盾していると思われるかもしれません。でも、僕にはこれが必要と思えるのです。とりわけ、シュトラウスの歌曲の演奏にはこれは必要不可欠なものではないかと思うのです。今回のデュオリサイタルを聴いて下さったお客様で「リヒャルト・シュトラウスの音楽には、その官能性と呼応した肉体的快感がある事がわかりました」という感想を下さった方がいらっしゃいますが、これはまさにわが意を得たり!という感じです。
僕は、オペラ歌唱における、悪く言えば「張りぼて」的な誇張、真実味が伴わない表現を歌曲表現に持ち込みたいのではありません。むしろ逆で、リート歌唱でのうその無い、水増しの無い表現を貫く事は絶対条件と思っています。
ただ、こういう演奏のトラディションやモラルは、その厳格さの故にその演奏の質を落とす事もあり、また風通しの良さ、歌う肉体の健康なみずみずしさを損なわせる危険もあります。わかりやすく言うと、リートでの音や表現の純度を求めるあまり、体がカチンコチンになって、一応は音楽が求めるようなきちんとした音が出ていても、音自体に魅力がなくなってしまっていたり、伸びやかさがない音楽になるケースが結構ある様に思っているのです。
僕が傾倒しているアントロポゾフィー(人智学)の考えを持ち込む事をお許し頂くならば、Geist(知性、精神)が求める要素は満たされていても、Seele(魂、心)や肉体が求める要素が満たされない。そんな言い方も出来ます。知性で明確に処理されていても、処理された音楽が演奏する肉体の躍動感を阻害したりして、音楽が自分で歩き出さない様な事がありがちの様に思います。音楽と言うのは健全な肉体性の上にのみ成り立ちうる芸術で・・・芸術はどれも肉体性の上に成り立つものだと思ってもいるのですが・・・その音楽を高度に構築するために知性が肉体性にブレーキをかけてしまった結果、聞き手の「こころ」に共鳴しない演奏になってしまっては元も子もありません。演奏法というのは、作曲された作品を良い形で再現するための道具ですが、道具が素材をダメにしてしまうわけです。こういう僕のリート演奏を「スポーツ的」と表現して下さった先輩がいらっしゃいました。肉体性と言うところにスポットを当てて言うとこういう風になるのだと思います。
オペラ歌唱では、大きな音響構造の中で、健康でみずみずしい声こそが表現力を持ちうるので、こういう肉体性は大変重要視されますし、肉体性の堅持こそがモラルとされる向きさえあります。ただこの肉体性のみの尊重ではもちろんリート演奏には不十分で、音の純度を高めた空間でその詩のもつ雰囲気を再現できる文学的なアプローチが必要になってきます。
この両方の良いところだけを組み合わせられないか?と言うのが僕の考えでした。大胆でなおかつ繊細でもあり、訓練されたオペラ歌手の肉体から繰り出される幅広いダイナミックレンジを存分に駆使し、文学的にも納得される良くコントロールされた歌曲演奏、これを理想としたいのです。

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・・・と、理論の上ではこういう理解をしているのですが、もちろん実践には別の難しさが伴うわけで、現実には試行錯誤の中で失敗も多くしてきました。
また、誤解を避けるために一応書いておきますと、こういう整理の仕方はあまり頻繁に行われているわけでなくとも、素晴らしいリート歌手の先達たちはこの二つの要素を、その演奏家なりのバランスで絶妙に混ぜ合わせて素晴らしい演奏を繰り広げて来ていると思います。こういう分類は、僕が僕個人のために行ったもの・・・もし傲慢にももう少し意味合いを広げる事が許されるなら、リートやオペラ歌唱を独自の伝統芸能として持たない我々日本人の為に整理したものであります。
前述の、あるお客様の感想にあるように、シュトラウスの歌曲作品には、「肉体的快感」と呼べるものが他の作曲家の歌曲作品より多く含まれているように思います。そういうR.シュトラウスの歌曲こそ、僕が言う意味での「オペラ歌手のリート演奏」が本領を発揮する場だと思うのです。
ピアノパートも時にはまるでオーケストラのように響きますし、カラフルさと言う事では他の作曲家の歌曲作品の追随を許しませんね。オーケストラバージョンの歌曲が聴衆に愛されている事はこの証明とも言えると思っています。
僕のパートナーのピアニストの服部容子さんは、ご存知の方も多いと思いますが、日本を代表する優秀なコレペティトアの一人です。オペラでの音楽作りを熟知していて、彼女がオペラのピアノスコアを弾くと、本当のオーケストラよりもオーケストラらしく響く事さえあります。そういうダイナミックさを持った彼女の様なピアノ・・・興味深い事に彼女の手はあんなダイナミックな音を紡ぎ出すとは到底思えないくらい小さくてかわいらしい手なのですが・・・をパートナーとして得て初めて、僕の目指す「オペラ歌手のリート演奏」はその理想に近づけます。
曲目も長い時間をかけて選び、僕がレパートリーと持っている歌曲だけでなく、敢えて新しい曲も入れてプログラムを組みました。4曲から5曲のグループに分けて、テーマをそのグループごとに与えて、コース料理のように仕立てたつもりです。
そして何と言ってもこだわったのは字幕でした。前回のデュオ・リサイタルでブラームスの「美しいマゲローネ」を演奏したときも字幕を導入しましたが、これはゲストとしてお呼びしたのが有名なタレントの山本耕史さんだった事もあり、リートになじみの無いお客様が多いであろうと言う予想もありました。また、日本語での朗読に挟まれた歌曲部分だけ、印刷した対訳を参照しなくては内容が追えないようでは物語に入り込むのが困難だろうと思った事が大きかった。
でも今回は、ピアノと歌だけの演奏で、言って見ればスタンダードな編成です。しかし僕は何としても字幕を入れたかったのです。
僕は字幕と言うものに関しては、決して手放しでそれを奨励するほうではありません。むしろその危険や負の効果について考えている方です。これは詳しくは述べませんが、一言で言うと、この字幕の存在によって、舞台と言う生きた芸術が、予定調和の二次元の世界に押し込まれてしまう危険を感じているのです。たとえて言うならDVDの世界と言ったら分かりやすいでしょうか。
でも、今回は総合的に考えて、メリットがデメリットを補ってあまりあると判断しましたし、字幕に出す内容を僕ら演奏家が作ることで、内容的に一貫性を強くしてコンサートとしての一体感、親密さを失わないように努力しました。
結果は上々だったようで、多くの方々から字幕があって本当に良かったと言う感想を頂きました。準備に時間と知的労働力をかなりかけての事だったので、これが報いられたのは大変嬉しかったです。反省点もありますが、これはまた今後に生かすつもりです。でも、演奏者が自分の演奏の様子に合わせて、どこで区切るか、どこでキューを出して、どういうニュアンスの訳にするのかを決めて行く事は、字幕も演奏の一部としてとらえた総合的な演出、演奏のやりかたとして良かったのだと手応えを得ました。
こうして字幕を含めて準備万端で望んだはずのこのコンサートですが、実は直前に体調を大きく崩してしまい、コンサート直前は喉の状態としては危険な状態に陥りました。最後の稽古ではほとんど声が出せずに、最悪の場合はどの曲をカットするか、と言う相談をしているような状態でした。
でも当日はなんとか状態も回復してきていて、プログラムは変更せずに済みました。自分としては不本意な部分がかなりありましたが、冷静に考えれば、もっとずっとひどい事にもなり得たのだと思いますし、あの状態としては満足すべき結果だったと思っています。
さて、何度か「雰囲気」と言う言葉を使っていますが、これが実は歌曲演奏法においては決定的な要素かとも感じています。一曲一曲の中での起承転結はもちろんあるのですが、それよりもその曲の持つ独自の雰囲気、空気の様なものを再現する方がずっと大事だと思うのです。そうしないと同じように起伏のある小さな山を並べてしまう事になります。28曲なら28個の小さな山をつくるわけで、これは意外に退屈な事ではないかと思うのです。それよりも一つ一つの曲のカラーを鮮明に打ち出して、2分から5分の間はそのカラー、雰囲気の中に浸かっていただく、と言う感じです。28色にはっきり彩られた絵を見ると言う事ですね。
たとえばFreundliche Vision(慕わしげな幻影)と言う曲は、テキストだけ見て見ると、どんな状況なのかはっきりとは掴めません。僕が訳した字幕の台本はこんな感じです。
 

僕がそれを見たのは夢の中じゃない
明るい日差しの中、目の前に現れた
一面の雛菊と深い緑の中の白い家
葉の影からのぞく神々しいものの姿
僕を愛するあの人と連れ立って
冷ややかな白い家に入って行く
そこで僕らを待っていたのは
溢れんばかりの安らぎと美だった
僕を愛するあの人と連れ立って
美に溢れた安らぎの中へ・・・

 
情景は浮かんできますが、具体的な情報はあまりないですね。そして、この詩につけられている音楽は天国的な美しさで、ある意味で現実らしさがない。そしてタイトルが「慕わしげな幻影」です。幻影と訳したこの言葉Visionは、厳密に言うと幻覚とか未来像としてのヴィジョンと言う意味も持っています。これが死の予感と関係があるのかないのかは、意見が分かれそうですね。僕は必ずしもそうではないのではないかと思いますが・・・。
僕自身が受ける印象は、「予知夢」の様なものです。R.シュトラウスでたびたび見られる、中途半端な長さの前奏で、すぐに歌が始まります。今回まとめて取り上げた作品21の3曲目Ach Lieb, ich muss nun scheiden(ああ恋人よ、僕は別れなければ)などもそうですが、音楽的に収まりが悪い長さの前奏を使う事で、かなり強引にこの曲の雰囲気に聞き手を引きずり込むようなところがあります。これは実は演奏者にとっては逆に居心地が悪くて難しい、対処に困る音楽構造です。僕ら演奏家は最初の一音を響かせる前の息を吸ったときに、もうすっかりこの世界に没入している必要があるのです。
28個の小さい山を作らないために、曲のキャラクターをはっきりと第一音から示すやり方は、こういうR.シュトラウス歌曲では普段以上に徹底して行われる必要があります。切れ味の良い日本刀で、スパッと空気を切り取って、そのまま衒いもなくそこに置く、と言う感じです。
まばたきを一度したら、もう目の前にはその直前とは全く違う情景が広がっていた、と言うような切れ味の良さです。この曲で言えば、まばたきの後に現出したのは予知夢であり、その美しさと神々しさの故に現実感がない情景です。
こういった情景や雰囲気を、一つ一つ、出来るだけ純粋で混じり気無い状態でお客様に見せて行く、というのが今回特に心がけたやり方でした。前後の曲の内容や雰囲気を引きずらずに、切り替えを鮮明に行うように努力しました。陳腐なたとえですが、M-TVなどでいろいろなアーティストのビデオクリップが次々と繰り出される様な感じでしょうか。
本番の前にしばらく迷っていた事は、その切れ味良く切り替えた一つ一つの曲の中での、僕と曲とのスタンス、あるいは客席とのスタンスの取り方でした。結局は、僕があまりメッセージを発する事をせずに、作品と客席の中継地点として、質の高い「再現創造」をする事に徹しました。僕達演奏家の肉体を通して聴衆の皆さんはR.シュトラウスを体験するわけですが、そこで意識して何かフィルターをかけたりさらに味付けをするのを思い切って止めて見よう、と思い、実行して見ました。僕が如何に自分の積極的な働きかけを抑えようとしても、僕が演奏する限りは僕の演奏家としてのアイデンティティはいやが上にも演奏に関わりを持ってきます。僕の肉体に、演奏技術や演奏法と言う部分で、もう染み込んでいる部分は意識せずとも演奏を処理して行くはずですから、そこは演奏家としての僕の肉体が処理するに任せ、言い方を変えればその上では自分を空っぽにして、R.シュトラウスが憑依できるような状況にしたいと思ったのです。
僕は現実に、演奏家が本当に「透明」になってしまうのを、聴衆として何度か経験しています。これが再現創造の最高のあり方だ、とその時に深く納得したのです。でも、ここに行き着くまでには技術を含めて長い道のりがあるわけで、何の訓練もしていない演奏家ががただ「空っぽになろう」と思ってもうまくいくものではないと言う事はわかっています。それで、今回は悩んだのですが、大好きで体に入っているR.シュトラウス歌曲だし、思い切って空っぽになって見ました。偶然かも知れないのですが、僕が体験したこの「透明」な姿を見せてくれた演奏家は、今までのところ歌曲では日本人の歌手が多いのです。オペラでは外国人歌手のそういう姿を何度も見ましたが。日本人のメンタリティーと、実は関係があるのかも知れません。
感想を僕に直接伝えて下さった方々のご意見が大勢の意見かと言うとそうでも無い事がありますから、何とも言えませんが、今回の演奏会では来て下さった方々の感動の深さのようなものが以前と違ったように思いました。
字幕によって内容の理解が大きく助けられた事がなにより大きな要素かと思いますが、僕のこの演奏スタンスは、少なくとも今回のプログラムにおいては正解だったような手応えを頂きました。驚いたのは、演奏中に泣いて下さった方が多かった事です。ストーリー性のある歌曲集でもないし、悲劇の主人公がいたわけでもないのですが、こういう断片でも、聴いて下さった方の経験や感覚を刺激してそこから感情の高ぶりを紡ぎ出す力が、R.シュトラウスの歌曲にはあるのだ、と思い知らされました。
明日から始まる2007/2008シーズンは、まずプーランクの「カルメル修道女の会話」で始まります。その次のプレミエはKonzert für Sie (あなたのためのコンサート)で、今回のテーマはイタリア。僕はこのシリーズには初めて参加します(今までは主にオペレッタが扱われる事が多かった)が、ヴェルディのオペラからアリアを二つ歌います。「シチリアの夕べの祈り」と「二人のフォスカリ」からのアリアです。そしてオペラは「ローエングリン」僕が歌うのはテルラムントです。ゲラではオランダ人以来のワーグナー。大変楽しみです。
そして、そのローエングリンの前には東京でのワルキューレがあります。二期会の公演で、僕にとっては東京での初めてのワーグナーと言う事になります。しかも役は神々の長ヴォータン。こんなに早くヴォータンを歌う日が来るとは、実は思っていませんでした。既に夏の東京滞在で、指揮者の飯守泰次郎先生とは音楽稽古を済ませ、飯守先生のスケールが大きくてワーグナー作品への愛に満ちた素晴らしい音楽作りにすっかり魅了されたところです。演出はベルギー出身のジョエル・ローウェルス。偶然に二期会の稽古の際に出会って、少し話をする事が出来ました。気さくな方で、演出手法などはまだ存じ上げませんが、人柄には強く魅かれました。2月に上野の東京文化会館での公演ですが、今から楽しみで仕方ありません。
小森輝彦
バリトン歌手。東京芸大、同大学院、文化庁オペラ研修所、ベルリン芸術大学に学ぶ。アルテンブルク・ゲラ市立歌劇場専属第一バリトンとして8シーズン目を迎えた。
日本では、新国立劇場、二期会、東京室内歌劇場などでのR.シュトラウスプロダクションで、マンドリカ、ローベルト、ヨハナーン、音楽教師など多くの重要な役を歌っている。2008年2月の二期会公演では「ワルキューレ」のヴォータン役を歌う予定。
公式ホームページはwww.teru.de/h

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