劇場便り2009

日本R.シュトラウス協会のご厚意により、日本R.シュトラウス協会2009年年誌に掲載されたエッセイを本ホームページに転載させて頂ける事になりました。
 
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今年のドイツの夏は、Schafskälteと呼ばれる寒波に襲われ、6月にまるで秋のような寒さを味わう事になりました。Schafskälteというのは直訳すると「羊の寒さ」となりますが、これは全身の毛を刈り取られて丸裸となったヒツジ達を脅かす寒さと言う意味があります。6月11日付近、厳密には6月4日から20日頃にやってくる寒波をさしますが、これが今年は本当に顕著で、コートを着ないと外出できないような寒さでした。もうドイツ生活も長くなりましたが、6月のここまでの冷え込みは初めて体験したように思います。
もうすぐ終わろうとしている2008/2009年のシーズンは、僕にとっては9シーズン目。8月からは数字が二桁台になります。このシーズンにこの劇場で僕が歌った新プロダクションは二つ。ヴェルディのオペラ「オテロ」と、アルバン・ベルクのオペラ「ヴォツェク」です。この他に、再演ものとして歌ったオペラはワーグナーの「ローエングリン」、ショスタコーヴィッチのオペレッタ「モスクワ、モスクワ」、プーランクの「カルメル修道女の会話」など。日本では東京二期会の「ラ・トラヴィアータ」でジェルモンを歌わせていただきました。
新しいプロダクションとして、ヴェルディのオペラを二つ、そして何と言ってもベルクの「ヴォツェク」を歌えた事は、僕にとって大きな財産となりました。特にヴォツェクについては後で詳しくのべたいと思います。
今まで、ドイツに住んでドイツの劇場の専属として歌っているためか、日本の音楽界で「小森はドイツもの専門」と見られる傾向があったと思います。ここに来て、東京でもヴェルディのオペラで声をかけていただけた事は、僕にとっては大変有難い事ですが、大好きなヴェルディが歌えて嬉しいとかそう言う事だけでなくて、自分の声に本当にあっているレパートリーを歌う事を通して自分の訓練を最良の環境で行う事、そしてその最良のレパートリーでお客様と出会う事が出来る(劇場での出会いと言うのは一期一会ですから、最善の環境で出会いたいものです)と言う意味でも大変意義がありました。
僕のヴォイス・トレーナーであるデヴィッド・ハーパー氏は、ここ数年「お前の声に一番あっているのはヴェルディのオペラだ」と強調しています。というのも、僕がここのところで受けたオファーに、声のウェイトからすると若干重過ぎるものが含まれていて・・・ヴォータンなどはその最たるものですが・・・その度に「ヴェルディに帰れ!」と言われ続けてきたのでした。
毎年何とか劇場のスケジュールが比較的薄いところを狙ってロンドンに通い、デヴィッドのレッスンをインテンシヴに受けるようにしていますが、今年も大変充実したレッスンを受ける事が出来ました。5日間で毎日2時間で合計10時間のレッスンを受けたのですが、このレッスンの録音を聴いて技術的な確認をして次の日のレッスンに備えようとするともうそれだけでエネルギーと時間を使い果たすというルーチンで、大好きなミュージカルやオペラの舞台に出かけていく余裕は、残念ながらありませんでした。
それでも今回は、僕が歌っている「ヴォツェク」と同じベルクの作曲のオペラ「ルル」がロイヤルオペラでかかっていたので、これは見に行きました。抽象的な舞台で一般的な評判は芳しくありませんでしたが、僕自身はかなり楽しめました。作品への理解が前もってあるのとないのとでは、こういう演出ではかなり印象や楽しめる度合いに差が出るのは仕方ない事だと思います。
僕自身は、どんなプロダクションでも、オペラに初めて足を運んだ人が「もう一度ここに来たい」と思うような舞台でありながら、その作品を熟知したオペラ通の聴衆に「今日はこの作品の新しい一面を見た」と唸らせるような舞台にするのが理想と考えています。この演出は始めの方の条件を充たさない事がかなりはっきりとわかります。
とはいえ、僕が楽しめたのは事実で、抽象化された動きや舞台装置の中で、美的に洗練された舞台が展開されていました。ルルをめぐって自殺する男達の様子を照明と動きを使ってうまくダブらせて見せたり、所作も圧縮と言うか、ぎりぎりまで無駄をそぎ取って、簡潔にし、研ぎ澄ませたもので、その一つ一つに演出家の美意識、美学のようなものを伺い見る事が出来ました。
話をヴェルディに戻しますが、声楽家の間で良く言われることに「ヴェルディは声を作るがプッチーニは声を壊す」というのがあります。これは、なるほど、と頷かされる部分があります。
ヴェルディの音楽は、後にワーグナーの影響を受けてきて、複雑で曲線的な構造を持ってきたように思いますが、それでも骨太の「枠」があるのが特徴と僕は思います。それに対してプッチーニは、演奏家として自分がその曲を演奏していても全体の流れが把握しにくいくらい、転調も頻繁にあり「うねる」感じのある音楽です。加えて、プッチーニではアリアなど感情が高まって来ると、メロディーが盛り上がってきて、歌のパートがそのメロディーを歌うだけでなく、弦楽器や時には管楽器も総出で一緒にメロディーを歌い上げます。
全体の音楽的な構造としては、歌の旋律をユニゾンで奏でる楽器は、声を「サポート」するわけですが、歌い手の側、特に舞台に立って歌っている「まな板の上の鯉」的心境の歌手にとっては、サポートどころか、破るべき壁となって立ちはだかります。特に経験が乏しい若い歌手や「自分の声量は十分でない」と思っている歌手(これが、実は大変多い)は、そう言う状況に置かれると、必要以上の音量を絞り出そうとするのが常です。こういった音響的状況の中でセルフコントロールをしきれないと、声を壊す結果になる事は確かだと思います。
もともと、イタリアオペラとドイツオペラでは声楽という楽器に求められているものが若干違うと思いますし、発音、発語のルールもかなり違いがあります。プッチーニが具体的にどの程度ワーグナーの影響を受けたかは別として、ワーグナーが絶対的な影響力を持った後期ロマン派の流れの中で、声の「美しさ」だけでなくて、強さや、言語情報の伝達能力など、楽器としてのポテンシャルに対して要求が強くなってきた事は間違いないと思います。
そんな中で、やはり声の「美しさ」を守る事が絶対に必要なのがヴェルディの作品と僕には思えます。「ヴェルディの声」という言い方がありますが、これは声の強さも要求されますが、うまくブレンドされた共鳴のバランスが絶対に必要です。今の歌手市場の傾向では、少しドラマティックな声を持つ歌手が出てくると、エージェントが飛びついてその年齢と楽器に不適切な、過度の太さを求められる役を与え、数年で声を壊してしまう、と言う事がよくあります。それに加えて、太い声ならイタリアものでもドイツものでもドラマティックなものが歌えるだろうと、需要に素直に従っていく結果、プッチーニ・ヴェルディ歌手とワーグナー歌手の顔ぶれがかなり一致してきてしまうという現状があります。結果的に、まったく曲線を内包しない音楽性でイタリアオペラが歌われたり、子音が十分聞き取れないワーグナー歌唱が横行する傾向を強める事にもなります。
イタリアオペラの内包するイタリア語文化を十分に活かした、声の共鳴の絶妙のバランスを持った声を培うためには、ヴェルディの作品を学び、演奏していく事は、僕には必須と思えます。
そんなわけで、ヴェルディの作品を演奏する機会を得ていく事は、歌手にとってこの上なく価値の高い「学校」ですし、そして、ヴェルディの作品自体の美しさ、ドラマ性の高さを堪能しつつ、その美点を紡ぎ出す担い手となる事は、歌手冥利につきる事です。
僕の場合は、プロダクションとしては、東京二期会の「ラ・トラヴィアータ」」そしてゲラの劇場での「オテロ」を続けて歌う事になり、この時期は、まさにヴェルディに浸り切る事が出来て、大変充実した時間になりました。
東京二期会の「ラ・トラヴィアータ」は宮本亜門さんの新演出によるもので、これまで定番といえる栗山昌良演出で長い間「椿姫」を上演し続けてきた二期会としては、意欲的なプロダクションでした。ご覧になった方も大勢いらっしゃるとは思いますが、演出や舞台装置は、オーソドックスな「椿姫」とは一線を画したものでした。賛否両論の結果になりましたし、「椿姫」と聞いて、艶やかな衣装や舞踏会のシーンを期待するお客様の気持ちは当然のものですが、その上で申上げると、僕は宮本亜門さんのこのアプローチと解釈を積極的に理解してその中に入り込める事が出来ました。
本来その場面でいないはずの登場人物を舞台に出すところも多くありました。タイトルロールのヴィオレッタの孤独や絶望をくっきりと浮き出させる為のツールとして、オペラ全体をヴィオレッタの夢、回想とリンクさせるこの手法は的を得たものだったと思います。宮本さんも、宮本さんのコンセプトを積極的に理解した上で役作りや流れを作ろうとした僕の努力を良く理解して下さって、僕からの演技アイディアを採り入れて下さった事もありました。こういう稽古場での「丁々発止」のやりとりは、役者としては何にも変え難い、ぞくぞくするような喜びの一つです。
指揮者のアントネッロ・アッレマンディ氏は、世界各地で活躍される指揮者で、繊細で緻密な音作りに大変魅かれました。とはいえ現実的な音楽実践の面で、僕には若干イタリア的でない(イタリア人でいらっしゃるんですが)と感じられる彼のやり方には順応するのが大変難しく、ステージに乗ってからもかなりの集中力を音楽的なアンサンブルの精度に取られる事になったのは残念な要素でした。この作品のオーケストラの役割として、同時期のドイツオペラに比べて伴奏的要素がいささか強く、また声の運びが音楽の流れを決めていく上で重要性をより強く担っていくべきと僕には思われるのですが、アッレマンディ氏の非常に強いリーダーシップで構成されていく流れが、歌手の自主性、ひいては舞台上のキャラクターの自主性、ライブ性を削いでいく感は禁じ得ませんでした。流れと構成がその日によってかなり変わるという事も状況をより難しくしていたと思います。あるいは僕の歌手としての経験値が上がってくればもう少し楽にこう言う処理が出来るようになるのかも知れません。
東京二期会の「ラ・トラヴィアータ」を終えてドイツに戻ると、すぐに仕事が待ち受けていました。オテロの立ち稽古までは少し時間があったのですが、予定外のプロダクションに急に参加せねばならなくなり、数日で譜読みし、なんと一度だけの稽古を経てテレビ収録(!)でした。
メンデルスゾーンの生誕200年と言う事で、我が劇場で初演したメンデルスゾーンの習作の「兵士達の恋(Soldatenliebschaften)」をARTEというテレビ局と提携して収録を行う事になったのですが、この作品に参加していた同僚のバリトンが急に解雇される事になり、かわりに僕がこれを歌う事になりました。
この手の話は時々あるとは言え、歌手の降板というだけでなく解雇という事態には僕もびっくりしました。その時に稽古が進んでいた、パーヴェル・ハースというチェコ人作曲家の「偽医者(Scharlatan)」というオペラの稽古で、この同僚バリトンが不適切な発言をしたとの事で、これを理由に彼は解雇されました。
パーヴェル・ハースはナチ政府によって強制収容所に送られ、ガス室で処刑されたユダヤ系の作曲家です。この「偽医者」と言うオペラは、いわばコミカルな喜劇なのですが、音楽的には大規模なオーケストラと複雑なリズムで、歌い手にとっては決して易しいオペラではないのです。この稽古の時にこの同僚は、パーヴェル・ハースをこの処刑の経緯に絡めて侮辱するような発言をしたとの事でした。ドイツという国では決して口にしてはならない類いの発言を、半ば公人である劇場の歌手である彼が多くの人間が同席していた稽古という公的な状況でしてしまった事を重く見た劇場総裁は、即時解雇という決断を下しました。大変重い措置ですから僕よりずっと年下でもある彼に対して、個人的には同情する部分がないわけではないのですが、日本人である僕にとっては、ここでドイツでの歴史の重みというものを強く認識させられる出来事でもありました。
このメンデルスゾーンのオペラにピンチヒッターとして参加したお陰で、オテロのヤーゴ、そしてそのすぐ後に来るヴォツェクのプロダクションの準備の時間をかなり制限されてしまいました。これはかなり痛かったのですが、オテロもヴォツェクも去年の9月から個人的には準備を始めていましたので、何とか間に合わせる事が出来ました。
オテロの立ち稽古が始まると、やはりこのシーズンのメイン演目の一つですから、劇場全体が活気づいてくるような気がしました。オテロのプロダクションは、オスナブリュック市の劇場との提携公演で、オスナブリュックの劇場の方で先にプレミエを迎えていましたので、稽古期間も若干短めで、いくらか突貫工事のような雰囲気もありました。オスナブリュックで既にこのプロダクションを歌ったオテロ、カッシオの歌手が来ていたので、主役4人の中ではヤーゴを歌った僕と、デズデモナを歌ったイタリア人ソプラノのサラ・エテルノさんがこの演出に新たに参加したわけですが、この二人ともが初役で、その意味ではちょっときつかったです。初役で、この役に対する経験がない歌手が、少ない稽古で既に出来ているプロダクションに溶け込む必要があるわけですから。
演出家のホルガー・シュルツェは、オスナブリュックの劇場のインテンダントであると同時に演劇部門のディレクターです。オペラの演出はいくつかやっているとはいえ彼の専門はストレートプレイの演劇です。このオテロはシェークスピアの原作ですから、その意味で特に興味を引かれる演目であったと思います。
彼がシェークスピア演劇の作り方としてしつこく繰り返していた事は、決して内向的になるな、と言う事でした。シェークスピア演劇のスタンダードな考え方なのか、ドイツ演劇におけるシェークスピアなのか、その辺は僕にはわかりませんでしたが、現実にヤーゴと言う役を演じる上では大きな助けとなりました。ヤーゴにとっては、ある意味、全ての人間とのコミュニケーションがそれ自体演劇のようなものです。カメレオンのように変化し、相手によって態度や語り口を巧妙に変えていきます。一体どれが本当のヤーゴの顔なのか、分からなくなるくらい、千変万化のキャラクターです。ですから、ヤーゴを演じる上では、半ば「劇中劇」を演じる時のような、誇張された表現を折り込んでいく事が必要になってきます。ただ、これが、場合によっては表面的な表現に終わっているような気がしてしまい、バランスがなかなか取れない時期があったのですが、このホルガーのアドヴァイスによって、その度に本来のバランスに戻る事が出来ました。その基準点になるのは、やはりヤーゴが本当の自分の顔を見せる時です。どれが自分の本当の顔なのか分からなくなるような変化を持つキャラクターではありますが、独白の時だけは、絶対に自分に戻っています。有名な「ヤーゴのクレード(信条)」などが独白にあたるわけですが、独白が彼の真実の顔である事は演劇の原則でもあると思いますから、ここを基準点にして、ヤーゴのキャラクターを構築していく事が出来ました。
オテロのプレミエの翌日、休息を取る事もままならずヴォツェクの稽古が始まりました。オテロとヴォツェク両方にプリンシパルとして参加していた歌手は僕一人で、しかもヴォツェクではタイトルロールですから、このスケジュールは大変でした。劇場の今置かれている状況からして、多くのプロダクションを毎年送り出していく事が必須である事も分かりますし、二つとも僕にとっては歌手冥利につきる役ですが、この二つのプロダクションが前後して続いてしまった事は、やはりプランニングに問題がなかったとは言えないでしょう。
それに加えて、オテロのプレミエの翌日に行われたヴォツェクの音楽稽古が、なんと最初の音楽稽古だったのです。そしてその2日後には立ち稽古が始まりました。ヴォツェクというオペラを少しでも知っている人ならば、初めての音楽稽古の2日後に立ち稽古が始まると言うこのスケジュールが如何に無茶なものかはご理解いただけると思います。これはこのプロダクションの音楽面に責任を持つ我が劇場の音楽総監督の方針でこうなったわけですが、今までも何度も問題になってきたポイントでした。
我が劇場では、先シーズン中に新たな条件での従業員との雇用契約が結び直されました。ゲラ市とテューリンゲン州が資金援助の額を削ってきたため、現状を維持しての経営が不可能になり、我々はリストラか雇用条件の見直しか、二者択一を迫られました。劇場インテンダントの方針として、まずリストラはしたくないと言う方針で、従業員もそれに従う形になり、オーケストラや舞台技術者など、それぞれが所属する労働組合が違うために、それぞれの交渉を経て、新しい契約が結ばれました。当然ですが、お金が減ってリストラが為されないわけですから個々の契約内容は悪くなります。主にボーナスのカット、昇給の率を押さえる事が盛り込まれました。
これからは劇場側としては、州との次の契約、市との次の契約のときにさらに条件が悪くならないように、劇場としての存在意義とポテンシャルを強くアピールしていかなくてはいけません。端的に言うと集客率を上げ、活動に対する評価を上げなくてはいけません。ですから、オーバーワークを承知で、演目数も増やして、魅力的なプログラムを組もうとします。
さっき触れた「今置かれている状況からして、多くのプロダクションを送り出して行く必要性」というのはこの事です。
しかし、雇用契約が結び直された事で、労働条件は悪化しています。それにもかかわらず、さらに質の高い成果を要求される事になるわけです。これは大きなプレッシャーとして劇場全体にのしかかっています。劇場全体の雰囲気がやはりそのせいで重く、暗くなってきている事を感じます。
僕は外国人としてここドイツに暮らしており、ドイツに骨を埋めるつもりはありませんから、こういう時期も、人生の中の一つの時期として「括って」しまう事が出来ます。でも、ここゲラにずっと暮らしていく人達にとっては、これは本当に重い状況です。「外国人として」とは書きましたが、もちろん外国人でもここでずっと暮らしていく事はあり得ると思います。僕の場合はそれを想定してドイツに来ているわけではありませんが、ヨーロッパ内の他の国から来ている人達の中には一生をドイツで暮らすつもりがある人は決して少なくありません。今だにドイツがヨーロッパの中で「劇場大国」である状況は変わりませんが、ゆっくりと首を絞められるような形で、だんだんドイツの劇場文化は酸欠状態に陥っているように思えます。
ヴォツェクの話に戻りましょう。これは僕が改めて説明するまでもなく、アルバン・ベルクの最高傑作の一つであり、オペラと言う文化形態における金字塔の一つであることは間違いないでしょう。ゲオルク・ビュヒナーによる台本は真実を元にしており、その現実のヴォツェクの処刑が行われたのは、ゲラから80kmしか離れていないライプツィヒ市でした。一昨年にオペラ「コジマ」で哲学者ニーチェを演じた時も思ったのですが、ともすると絵空事にも思えてきそうな、こういうオペラの中での出来事が、時間的な隔たりはともかく、地理的な隔たりは殆どない、非常に近いところで起こっていた事に驚きます。ニーチェが育ったナウムブルクはゲラから60km、晩年に入院していた精神病院(これがオペラの舞台になったのですが)はゲラから30km程のイエナ市にありました。
ニーチェと同じく、精神に破綻をきたして破滅する男としてえがかれているヴォツェクは、一介の兵士です。しかも下級兵士で、共に生活している女性と結婚するための許可を得るための資金もありません。この貧困とそこから来る様々問題と向き合って行く事が出来ず、最後はその恋人マリーを殺害し、自分の命も絶つ事になります。(オペラでは処刑でなく、入水自殺となっている)
結婚の許可のためにお金が要ると言うのが、まず現代では考えにくい状況ですが、ヴォツェクの場合、兵士としての収入に手を付けずに貯金していったとして(生活費が必要ですから不可能ですが)40年かかって貯まる金額がその許可に必要だったとの事です。これは収めるのでなく、その額を財産として持っている事を証明する必要があったのですが、それが出来ないために、マリーとの間に出来た子供は私生児として育てる事になり、教会に祝福されていない子供を持っている事が「非道徳的」と上司の大尉になじられるところからオペラは始まります。
僕は同じくビュヒナーの台本による「ヤコプ・レンツ」の日本初演でレンツを歌う機会に恵まれたのですが、このレンツも精神に破綻をきたしていく人間です。ビュヒナー独特の美意識で綴られたこれらのオペラには、救いのない状況で如何に人間がもがいているかが巧みに、また説得力豊かに綴られています。
ヴォツェクには、いくつかの版があり、当初うちの劇場では、オリジナルの大編成のバージョンと、小編成のバージョンを併用して、ハンガリーへの引っ越し公演ではオーケストラ・ピットの小さな劇場での上演のために小編成、普段は大編成、という考えで準備が進んでいました。しかし、調べてみると、小編成のバージョンは全くオーケストレーションが異なり、ソロを受け持つ楽器がことごとく変更されている事が分かりました。結果として、本来その楽器のために考えられたとは言えないパッセージを演奏する必要があることもあり、小編成ではありながら ヴィルトゥオーゾ的なオーケストレーションによる各奏者の技術的な負担が、実現不可能なほど大きい事が判明しました。それに加えて、ちょうど僕らのプレミエの直後にこの小編成バージョンが他の劇場で使用が決まっていて、その劇場がドイツ初演の権利を先に取ってしまっていた事もありこの小編成バージョンはボツになりました。
しかし、大編成のオーケストラは引っ越し公演だけでなく、小さめのピットのアルテンブルク市立歌劇場でも演奏が不可能で、困り果てていたところ、もう一つ、3つ目のバージョンがある事が分かり、何とか上演のめどが立ちました。ゲラのような小さな劇場では、このヴォツェクの様な作品が頻繁には演奏されてこなかったと言う事でもあると思います。
しかし、今回のヴォツェク公演はゲラでの初演ではありません。80年前に演奏されており、その時は作曲家のアルバン・ベルクも立ち合ったと言う事です。それどころか、ベルクは講演をしてオーケストラの練習にも顔を出した記録が残っています。興味深かったのは、ベルクがその時に劇場インテンダントに宛てて書いた手紙です。上演の状況などについても言及しているものの、かなりの字数を割いて、ゲラ来訪の際の講演の謝礼などについて丁寧ながらも切実な要求をしており、当時この作曲家が成功はしていても経済的に裕福ではなかった事を示しています。
僕にとってのヴォツェク体験は、言葉と音楽の関係を別の角度から見直す機会になったと言う点で意義深いものでした。Sprechgesangという、独特の演奏形態がこのヴォツェクでは採用されていますが、これはアーノルド・シェーンベルクが「月に憑かれたピエロ」で初めて使ったものだと思います。楽譜に音程とリズムが、普通の歌う部分と同様に示されてはいるものの、音符にバツ印がついていて、その音程を正確に歌うのではなく、音程とリズムを尊重しつつも「話す」要素をより多くすることで、歌と語りの中間となる表現を狙ったものです。これについては、ベルクがヴォツェクの楽譜の前文に演奏方法についての指示を長々とのべています。
このベルクの指示を言葉として皆が理解したところからスタートしても、やはり現実の実践面では色々と問題や意見の相違が出て来ます。僕らの場合も実際に稽古場でかなりディスカッションをする事になりました。指揮者と演出家の意見も食い違っている部分がある上に、歌い手としては「歌えない」という状況は、表現にどうつなげていいのかが場合によってはハッキリしなくなってくる局面も多々あり、フラストレーションはかなり溜まってきました。僕の場合はそれに加えて、ドイツ語が母国語でないと言うハンディがありますから、さらに辛いものがありました。しかし、ここは逆にドイツ語と言うものを客観的にみられる立場でもあると考え方を切り替えて望みました。
演出家のマティアス・オルダーグは我が劇場のインテンダントでもあり、ゲストとしてこの劇場で演出をしていた時期から多くの作品で共演してきましたから、演出家と歌手としての信頼関係は前提としてしっかりできており、その上でこのSprechgesangをどう料理するか、じっくり時間をかけて取り組む事が出来ました。
録音や現実の演奏でも良くあるのが、楽譜に描いてある音程付近を漂うように語る、というようなやり方なのですが、これはどうしてもマティアスが容認しなかった。このやり方だと、確かに音としては楽譜での指示に近いものになっては来るのですが、歌のところと体の使い方が全く変わってしまい、結局はそれが一つの色になってしまう。つまり
Sprechgesangのカラーが一つしかない状態になってしまうのです。指揮者が「表現主義的な音使い」という表現をしていましたが、夢見るような、どこか上の空のような、抜けた音になってしまうのです。音として楽譜に近くても、「歌」よりも「語り」に近付くべきSprechgesangなのに、歌よりも言葉のインパクトが弱い表現になってしまうのです。
マティアスは予てからヴォツェク上演でのこのSprechgesangの扱いに強い違和感を覚えてきたとの事で、そんな意志の強い発露が見られないような声と言葉の扱いはするなと、何度も稽古を重ねる事になりました。
稽古としては、言葉だけをセリフとして読んでまた歌い、また読んで歌うと言う事の繰り返しなのですが、それを通じて、段々と言葉が体に染みてくると言う感覚が生まれてきました。こういう感覚を持ったのは初めての事で、不思議な感覚であると同時に、発語すると言う行為が、知性だけの行為なのではなくフィジカルな感覚と直接的につながってくると言う快感でもありました。
マティアスがこういったSprechgesangの稽古の中で繰り返し言っていたのは、「歌うところでなく喋るところからスタートしなくてはいけない」ということでした。その際に彼が使っていた「Doktus(ドクトゥス)」という言葉がうまく訳せないのですが、このドクトゥスという言葉は、ラテン語から来ていて「管理、指揮」の様な意味合いがあるのですが、話し方、あるいは絵の場合は筆の運び方などのスタイルをさす言葉です。喋るスタイル(ドクトゥス)からスタートせよ、という事なのですが、この事を稽古しながら考えていて、ふと思ったのは、ベルクのインスピレーションがどこから来ているのか、という事でした。常々僕は、作品と言うのはゴールではなくて、作者の見たもの、作者に霊感を与えたものを見るための「窓」だと思っているのですが、ここでもまさに、ベルクが何を見て何を表現しようとしてこのSprechgesangに至ったのかを見つめなくてはいけないのではないか、という事に気付きました。つまり楽譜に示されたバツ印付きの音符の流れはそのヒントなんだと。そう割り切ると、段々イメージがはっきりとしてきました。
例えばベルクがその場面でどういう発語を求めてイメージして、一人で言葉をどうつぶやいてみたのだろうか。そういう発想で言葉と音符に向かってみました。
実践の際には、意外な事だったのですが、表現意欲が強過ぎると、その作品の源にまでさかのぼる事が難しく、心を静かにして、表現者、歌い手としての表現意欲を忘れて心を空っぽにしたような時にうまく行くのです。憑依と言うと大げさですが、表現者としての自分を無くした時に最も理想的なバランスが作れるように感じました。
昨年の夏に「道元の冒険」と言う蜷川幸雄さん演出の舞台を見てから、興味を持ちつつも触れる機会を逸していた禅宗の勉強を少し始めているのですが、そこで求められているものと、ここでの表現者としての態度に近いものがある様に思われました。この関係は今後も強い関心を持って追っていきたいと考えています。
このシーズン最後に、たっぷりとR.シュトラウスの作品を歌う機会がありました。トッパンホール主催の「オペラ・アリアの夕べ2009 二人のリヒャルトーワーグナーとシュトラウス」というコンサートです。僕が歌ったのはローエングリン、タンホイザー、インテルメッツォ、アラベラ、バラの騎士からの重唱とアリアでした。企画の時点で佐々木典子さんと僕の二人のレパートリーから積極的にプログラミングに参加させていただき、あまりステージにかかる事のない演目も含めて意欲的なプログラムになりました。そして7月25日が本番だったのですが、皆さんもご存知のように、その四日前に指揮の若杉弘先生が亡くなりました。
僕が今まで日本で歌わせていただいたワーグナーとR.シュトラウスのオペラは、その殆どが若杉弘先生の指揮によるもので、インテルメッツォの時などは日本R.シュトラウス協会の例会で芝居好きの若杉先生の企画で、セリフの芝居としてのこのインテルメッツォの冒頭の部分を上演しました。日本R.シュトラウス協会と東京オペラプロデュースの共催による「ナクソス島のアリアドネ」からサロメ、アラベラ、インテルメッツォとずっとご一緒させていただいた事は、僕にとっては本当の宝物です。
そして、若杉先生の元に僕を導いてくれたのが、R.シュトラウスの音楽でした。オペラ研修所の研修生だった時に、若杉先生の特別講座があって、ここでアラベラの二重唱を歌わせていただいたのが、ソリストとしての若杉先生との出会いだった(芸大の学生の時に合唱ではサントリーホールのオープニングでのマーラー交響曲8番で、初めて先生のタクトで歌わせていただきました)のです。この時に偶然にも、僕の最愛のオペラであるアラベラを講座の課題曲として頂けたのはとても嬉しい偶然でした。バイエルン州立歌劇場のアラベラ日本初演と、それに前後した日本R.シュトラウス協会の例会でのサヴァリッシュ氏の「R.シュトラウスのオペラと調性について」という素晴らしい講演を聞く機会に恵まれ、それ以来すっかりR.シュトラウスのオペラに熱を上げていく事になった僕にとっては、この曲で日本最高のR.シュトラウス指揮者である若杉先生の指導を受けられて、本当に夢のようでした。
そんな僕にとって、このコンサートのプログラムは、若杉先生そのものといっても言い過ぎではなかった程です。この日のコンサートでも、ずっと若杉先生が目の前で指揮をして下さっているような気がしてしまいました。
本来はアンコールなしにしようと言う事で申し合わせていたのですが、無理にお願いをして、若杉先生のご冥福を祈って、モーツァルトの「夕べの想い」を歌わせていただきました。僕ら日本の声楽家が如何に若杉先生に多くの宝物をいただいたか、それに感謝すると同時に、その先生のご恩に報い、この財産をさらに伝えていく、実践していく責任を新たに心に刻みました。心から若杉弘先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

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