「ドン・ジョヴァンニ」ドン・ジョヴァンニ役 1990年3月
1990年9月
1991年5月
1994年3月
この役は、今までに4度演じていて、今回2001年9月のゲラでのプレミエに向けて5度目のジョヴァンニに挑戦しています。何度やっても飽きることはもちろん無いし、その度に新しい発見がある素晴らしい役です。というか、このオペラ全体が素晴らしいからね。
1994年に文化庁オペラ研修所の修了公演としてジョヴァンニを歌ったのが前回ですが、このときにマエストロ・ウバルド・ガルディーニのもとで1年間の長きに渡って指導を受けたことは今の僕の宝物になっています。楽譜から始めるのではなくて、ダ・ポンテのリブレットをまず読んでイタリアの詩の韻律のシステムを学ぶことから始めて、その詩のシステムと音楽の関係、実際に現場での演奏法、楽譜の数ある版の比較などなど。ガルディーニ先生が日本で教えて下さる場がある事で、イタリアでも勉強できないようなことを沢山教わりました。内容はちょっと専門的なことになりすぎるのでここでは割愛。
でも、この「イタリアオペラとしてのドン・ジョヴァンニはこうあるべき」という確かな演奏スタイルを知っているために、逆に柔軟さ欠くこともあって、これは注意しなければと思います。
ガルディーニ先生は多くのCDの録音などにも関わって、特にレチタティーヴォ・セッコの指導をされることが多いようなのですが、CDの録音などではもちろん忙しい歌手が何とか集まって録音をするのが精一杯で、とてもガルディーニ先生の指導が行き渡るようなことはあり得ないそうなのです。僕らは研修所という場所の性格もあってみっちりと時間をとって指導していただけて、先生もこれほど本格的に一つの作品をまとまった時間をかけて教えたことはないとおっしゃっていたし、これはとても幸せなことであったわけです。ゲネ・プロのあとに先生が「ペルフェット!(完璧だ!)」といって下さったことは今でも忘れません。1年間の汗と涙(?)の結晶だったわけです。
それだけにこのガルディーニ先生の指導の通りのジョヴァンニを歌えないと、僕としてはフラストレーションがたまるわけですが、でも反面「答えは一つではない」とも思うのです。
オペラ歌手の同僚、先輩方の中には、本当にいろんなタイプの人がいて、それぞれの方法で役作りをしているわけですが、一人一人の歌手の中に解釈はあるわけだし、演出家・指揮者もそれぞれ役に対して抱いているイメージや解釈があるわけですね。でも、もし演出家と歌い手の解釈がぴたりと重なったときにしか良い演奏が生まれないのであれば、それは間違ったことではないかと思うのです。そう言う状況が発生する確率が大体低すぎるし。
オペラの稽古場では、解釈をめぐって演出家と歌い手が意見の交換・・・場合によっては論争・決裂・・・などをしをしているシーンがよく見られます。これは理解を深める上で絶対必要なプロセスですが、もし歌い手が自分の解釈に沿う演出だけを求めていると、新しい可能性というのは生まれてきません。逆に演出家のロボットになって求められる解釈を自発的な創造無しにやっていくようでは素敵な舞台は生まれっこありません。悲しいのは歌手が時々「舞台に上がったらこっちのものだ」と演出家のプランを半ば無視して自分のイメージだけで演じてしまうパターンです。これはその演出家が用意した枠の中で演じている以上、もちろんミスマッチになるし、良いものが生まれるわけがないのです。歌い手は「自分の解釈を守り通した!」と誇り高く言うかもしれないけど、割を食うのは結局、お金を払って劇場に足を運んで下さるお客様なのです。これは絶対に、絶対にあってはならないことです。
話が少し飛びましたが、だから僕もフレキシブルになって、場合によってはガルディーニ先生によって生まれた僕のジョヴァンニ像に固執するべきではないと思うこともあるわけです。もちろん場合によるんですけどね。
ジョヴァンニを演じる際に、気をつけなければいけないと思うこと、逆に言えば面白いなぁと思うことはたくさんあります。ジョヴァンニは従者レポレロが作ったカタログにあるように今までに2000人以上の女性をものにしているわけですが、このオペラが始まってから終わるまでにただの一人の女性も獲得していません。演出によっては獲得していることにして3人の女性ソリスト以外の女性を登場させている場合もありますが、もともとのリブレットには書き込まれていないことです。
これはすごく面白いことだし、逆に難しいポイントでもあります。ジョヴァンニのキャラクター本来の色と、この物語で彼がどういう目に遭うかという色は両方見えなければいけない。
歴史的に良く論争のポイントになるのは、序曲のあとドンナ・アンナ(貴族の娘。オペラの冒頭でジョヴァンニはあんなの部屋に忍び込み、逃げてくる)とジョヴァンニが一緒に館からでてくる前にはたしてふたりの間に何があったか、ですが、これも両方ありうると思います、僕は。有名なフェルゼンシュタインの論文では二人の間の肉体関係は否定されているし、その前のE.T.A.ホフマンは逆の説を唱えています。音楽によってドラマの質というか内容が既定されているとはいえ、どう演じるかによって生じる説得力の違いの方が断然大きいですから。
ジョヴァンニは貴族であると同時に、全ての女性に仕える「しもべ」でもあると僕は思います。そうでなきゃあの数はこなせないですよね。そしてジョヴァンニが超人間的な・・・例えばデモーニッシュな・・・キャラクターを有する必要がある場合(大体においてそれは要求されるのですが)、それはジョヴァンニを歌う歌手ではなく、他の歌手によって生まれる効果なので、他の歌手がそこをきちんと理解してくれるかどうかにもかなり依存します。
いやぁきりがないなぁ。今挑戦しているジョヴァンニは、決して若くはなく、しかし若さを保っている男性です。序曲から登場するのですが、これがちょっと厄介。序曲の音楽は騎士長(ジョヴァンニの友人。娘のドンナ・アンナをジョヴァンニが誘惑《しようと》して逃げる際に決闘となり殺される。あとで石像の姿でジョヴァンニ邸に現れてジョヴァンニを地獄に連れていく)の音楽なので、そこでジョヴァンニが何をしてもやがて来る石像による破滅を匂わせないでは演じられないように思うのですが、どうも演出家の意図はそうでないらしいので・・・。
まぁあと約5週間あるので、落ち着いて組み立てて行きたいと思います。
(2001.8.21)