Don Giovanni -2

ドン・ジョヴァンニ エッセイその2
ゲラでのドン・ジョヴァンニの公演、3回を終えました。これについては若干日記の中でも報告してきました。
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このゲラでのドン・ジョヴァンニを通じて、僕自身としては表現者としてかなり前に進めた感じがしています。一般的にいうと成長したという事になるんですが、まぁ僕の極めて主観的な実感だし、ちょっと「成長した」と言うのは、いまいち自分としては気持ちが良くないんですが、まぁそんな感覚を持っています。


僕もまだこのサイトを始めたばかりだし、こうコンスタントに自分の思ったことを公にすることには慣れていません。どこまで書くべきなのか、とかね。でも、自分としてかなり本気に近いところでこのサイトをやっているので、こういう、歌手としての自分のかなり核心に近いことも書いてみたい気持ちでいます。今のところ。僕の活動を宣伝するのが目的のサイトというわけでもないですから。
僕にとって、ドン・ジョヴァンニというのは非常に大切な役で、数多く演じているからというわけではなく、多くのこだわりや想いがあります。もちろんこの人物に特に親近感を持っているわけではありません。こういう人生にあこがれているわけでもないし。(僕は長生きしたい)
まず音楽が何と言っても魅力的です。このモーツァルトの音楽はすごいです。どこがと言うと難しいし専門的になりすぎるかも知れないけど、とにかく。そしてこの上のエッセイその1でも書いているとおり、マエストロ ウバルド・ガルディーニの教えをたっぷりとこの作品を通じて受けることが出来たという事も僕にとっては大きな意味を持っています。
こだわりがあるからこそフレキシブルでなくなる可能性についてはエッセイその1で書きました。今回自分が前に進めたと感じているのはここと大いに関係があります。
「オペラ歌手として、演出家が要求するキャラクターに必要な表現をいつも提供できなければならない」という気持ちがあります。また同時に「自分の解釈は貫きたい」という気持ちもあります。
前に書いたとおり、演出家の用意した枠の中で、演出家の望まないキャラクターを演じることは、プロダクション自体をダメにしてしまいます。でも、全て演出家の指示通りに演じるロボットになるわけにも行きません。
今回、具体的にはかなりジョヴァンニの役作りの上で、演出家と意見の違いがありました。象徴的に言うならば、例えば「ジョヴァンニは死に場所を探しているのか」という問いにもなります。
ドイツのオペラ界では、演じられる人物像が、必要以上にヒステリックだったり挑戦的だったりという事が多いように僕には思えています。これはずいぶん前から感じていることです。ドン・ジョヴァンニや「さまよえるオランダ人」のオランダ人がデモーニッシュである必要があるのかという問いもこの線上にあります。要するにキャラクターが極端に誇張されるわけです。でも日常の中に本当のドラマが潜んでいるように、キャラクターを誇張しなくても、ドラマ性というのは紡ぎ出せるものだし、心の振幅を増幅することと役柄をお化け(とか悪魔とか)にすることでは本質的に意味が違うわけです。
例を出すと、僕が本当に心動かされたエレクトラ(R.シュトラウスのオペラ)は、ギネス・ジョーンズによって演じられた「少女」エレクトラでした。こんな環境でなければこの少女は義父を殺そうとするわけはなかった、この少女の精神を救ってあげたい、と思わせるエレクトラだったのです。でも大体においてエレクトラは人間として演じられていないと思います。お化け扱いです。
このギネス・ジョーンズのエレクトラがキャラクターとしておとなしいエレクトラだったのではありません。むしろ逆です。でも彼女のエレクトラは人間として演じられていた。だからこそ僕の心の琴線に触れるものがあったのです。エレクトラが少女でなくお化けだったら、お化けが復讐したって何も悲しいことはないし切ないことはありませんよね。ゴジラ対キングギドラの世界です。
例が極端になりましたが、ジョヴァンニのことにもどります。
ジョヴァンニは確かに極端な行動をしますが、僕は人間だと思っています。だから死にたくないし、恐怖も感じるし、夜は寝るのです。まぁ寝る以外にやることが多いみたいだけど。でもうちの演出家によるとジョヴァンニは寝ないのです。人間じゃないそうです。「じゃあ何だ?」と聞いたら「ジョヴァンニだ」そうです。
極端にエネルギッシュな人間であることは疑いありません。でも人間だし動物だと思うわけです。ある場面で舞台上をぐるぐる走り回るように指示されたのですが「僕には走り回る理由がない」といったら、「それはお前がジョヴァンニだからだ」といわれました。これは僕が求めていた答えではありません。
でも。でも、なのですが。
これらの問答によって彼がどんなジョヴァンニをほしがっているのかはだんだんはっきりしてきました。例えば具体的に言うと、むやみに物理的な動きの幅が大きかったり、動作が多かったりすると、キャラクターのスケールが小さくなると思うので、あまりむやみに走り回りたくなかった。でも今回、走ってみました。ロボットになるのは嫌だという想いはあったのですが、演出家との衝突によるストレスも最高潮に達して「いちど彼の色に染まってみるか」と言う気になったのです。
「ジョヴァンニは気が狂っている」「ジョヴァンニは病的に神経質な人間である」「ジョヴァンニは死を求めてひたすら『他』に対して挑戦的である」などなどの自分へのプログラミングをしてみました。もちろんここに書いた3項目は例でありますが、極端です。でもすこし硬直し始めていた僕の頭をセンセーショナルに刺激するにはこれくらいの極端な変更が必要でした。また、この日本人である僕の感覚と肉体がフィルターとしてジョヴァンニを表現する以上は、僕の持つ色というのがでてしまいます、良くも悪くも。だからその表現者としての僕が持つ癖や方向性の分「さばを読む」つもりで極端にイメージする必要もありました。
一度こう決めてしまうと楽になる部分もあって、スコア全体を見直して、具体的な芝居の内容も決めていって稽古で見せてみました。3回目の通し稽古だったかな。
そうしたら演出家だけでなく、他の出演者や、僕の信頼しているアシスタントの同僚からも絶賛される結果になってしまったのです。心ならずも、というとまた言い過ぎですが、僕が望まないものを演じて絶賛されると言うのは不思議な経験でした。
でも、僕が「嫌だなぁこんなの」と思いながら演じていたら、やはり良いものは生まれてきません。なぜこういう結果になったかというと、僕がその違うジョヴァンニを演じることに一種の爽快感を覚えていたからこそ、その違うジョヴァンニが真実味を持ってきたのだと思います。
「やってみたら悪くなかった」というとちょっと違うのです。細部ではやはりどうしても受け入れられない点もあって、僕なりに違う可能性を提示して受け入れてもらったりしましたし、前にやったジョヴァンニがやはり「正しい」様に思う気持ちは変わらないのです。自分の好みと全く違うセンスの洋服を着てみて「こういうのも悪くないなぁ」と思う感じと言ったらわかってもらえるでしょうか。
現実的な面では、僕がそう言う根本的なところで演出家のジョヴァンニ像を受け入れたことで、コミュニケーションもより円滑に進みましたし、僕がどうしてもと思う部分での主張は受け入れてもらえるようになりました。演出家の求める芝居が「できないから反論する」のではないと言うことがわかってもらえたという感じです。
そういうわけで、僕の中には今複数のジョヴァンニ像がありますが、その両方を「真実」として演じられる、カメレオンのような資質こそ、もしかしたらオペラ歌手の、あるいは表現者の宝ではないか、とちょっと考え始めています。「真実は一つではない」という事をこの頃よく考えますので、そう言う僕の日常における人間としての状態や時期・時代ともこの出来事は連動しているのかも知れません。
(2001.10.8)

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