また話を住居の事に戻します。うちの大家さんは親日家で、僕らの前にこの部屋を借りていたのも日本人でした。娘さんがドイツ語の先生としてイタリアで働いている間、きれいに使う日本人に貸したいという事で僕らはこの部屋を安く借りることが出来たのでした。
その大家さんのお宅を訪ねた帰りに、ドアを開けて一緒に共同の廊下に出た途端、大家さん夫婦が急にひそひそ声になったのでびっくりしました。廊下は音が良く響くし、厚い壁でそれぞれの家と遮断されているわけではなくドア一枚隔てているだけなので、確かに廊下での音は家の中に良く聴こえます。「廊下に出たから静かにしなくちゃ」と考えて行動しているのでなく、廊下では静かに話す、という事がもう身体にしみついている様でした。
部屋の中もそうで、やはり音が良く響きます。普段の食事は台所についているテーブルでするのですが、そこでガチャガチャと音を立てて食器を扱うとあまりに響くので、ちょっとした大騒ぎという雰囲気になってしまいます。この中で食事をしていれば、自然と静かに食べるようになるのでしょう。マナーというのもやはり生活の中で生まれてきたものなのだなぁと実感しました。
古い建物では天井が高いですし、僕が予想していた以上に壁などの素材の違いが音響を経て生活に与える影響は大きかったようです。もっとも現代において、日本の家屋とヨーロッパの家屋と、建築技術や素材の違いはそれほどない様に思えますが、歴史に培われた「好み」は依然として存在するでしょうから、いわゆる日本家屋での音響感覚は今の日本の家にも残っていなくはないのでしょう。この材質の差は外気を遮断する必要から生じた部分も大きいでしょうから、気候の影響ということにもなり・・・探っていくときりがないですね。
科学的な事情はわかりませんが、音の響きは乾いた空気の中の方が良いのではないでしょうか。僕にとっていちばん重要なのは演奏に際しての音響ですが、うちで練習していても部屋で音が良く響くので、とても気持ちが良いです。こういう響きの部屋や、もっともっと天井の高い教会などの中で歌うことが日常的であれば、まずテクニックを経て発声を考えるというのでなくて、自然に、良く響く声の出し方、言葉の扱い方が身について来るんじゃなかろうかと嫉妬に似た気持ちを味わったりもします。
話は変わって、今度は人間ウォッチングでのこと。ベルリンの南西にポツダム市がありますが、その手前にヴァンゼーという湖があります。ちょっとした観光地なのですが、冬のある日、そこに出かけようとツォー駅からSバーン(国鉄)に乗りまして、ボックス席に座りました。向かい側の座席の背もたれの部分に何かついていまして、よく見るとチューイングガムでした。汚いなぁと思っていると次の駅で乗ってきた人がそこに座ろうとしたので、「汚いですよ!」と言うと気がついてなるほどという顔をして、「ありがとう」と言って他の席に行きました。そうすると、列車中央の通路をはさんで反対側の席に座っていた老夫婦の男性の方が何があったのかとわざわざ見に来て、近くまで来て確認すると、これまたどういう事なのかとじっとこっちを見て報告を待っている奥さんに説明したのです。まぁなんと好奇心が旺盛なのかと感心したものですが、これは決して極端な例ではないようで、町の中でも、何か変わった音がしたり、何か様子が変だとみんな振り向きます。ベルリンは外人が多いところですから、僕ら日本人が歩いていても決して珍しくはないのですが、それでも顔をじっと見つめられることが少なくありません。日本で育った僕の感覚からすると、そんなに見つめられると「何か用かい?」と尋ねたくなるほどです。
同じ様なことですが、大学で小さな発表会があって聴きに行ったとき、舞台のある場所が濡れていたのか、どの人もそこで足を滑らせて転びそうになりました。休憩になると一人のおばさんがそこに行って靴の裏でその部分をなでるようにして感触を確かめていました。僕らは思わず笑ってしまったのですが、休憩とはいえ舞台の上ですから客席に座っている人からは良く見えるわけで、どうしてそういう行動に出たかはそこにいた人にはすぐわかるような状況です。好奇心の方が羞恥心(と呼ぶのが適切かどうかわかりませんが)を上回るのでしょう。羞恥心などという不必要なものは持ち合わせが無い、という風に見えるほどです。
好奇心、羞恥心の話に限らず、よく「ドイツ人は良くも悪くもダイレクトすぎる」という意見を聞きます。外国人はこのダイレクトさに驚いたり、時には嫌な思いをすることもあるようですし、「ドイツでは必要なときははっきりと主張をしないと耳をかしてもえらえないよ」と忠告をくれた友人もいます。僕もこの傾向は感じますし、ちょっとまだ慣れない部分もありますが、ドイツ人同士はもちろんこれでうまく行っているようです。我々日本人のコミュニケーションの取り方とどこが違うのでしょうか。
町中でベビーカーを押すお母さんや杖を持って歩くご老人の姿をかなり頻繁に目にしますが、ベビーカーを押すお母さん方や足や目が悪い人がバスから降りる際に、近くにいる人が手を貸すことは当たり前に行われていて、日本で全く見かけない光景ではないですが、なにか違いを感じました。「僕らは、この人達ほど気楽に人と協力しあっていない」と思ったのです。
たとえば、僕は学生の頃、電車の中で席を譲ろうとしたとき「まだそんな年寄りじゃないわよ」なんて怒られたらどうしようかと迷ったりすることがありました。もちろんこういう考え方が日本人の大勢とは思わないのですが、僕がときどき体験する気を使いすぎての行き違いというようなことは、ここドイツでは起こりにくいように思えます。どうしてこういう違いが生じるのかと考えてみて思うことの一つは、ドイツ人が自分がどう感じ、認識したか、あるいは自分がどういう風に見えるか、認識されたかを人に知られることに、日本人より恥ずかしさや抵抗を持っていないのではないか、という事です。「年寄りだと思われたのかしら」と思う方と「年寄りだと思ったと思われるのかな」と思う方の、無言のうちに相手の気持ちを察することが出来る日本人の特質から生じる両方の心の壁によって、日常での助け合いが妨げられているとしたら残念なことですね。
自分なりの考え方、自分の意見を持っていることがここでは尊重されるようです。僕が大学のオペラの授業で、イタリア語のセッコレチタティーヴォの歌い方をめぐってある教授と喧嘩をしてしまって、「まずいことをしたかなぁ」と、その事を友人に話すと、「それによってかえって自分の意見をはっきり持っている人間とみなされるから、意見を戦わせるのははよいことだ。」と言われました。それより驚いたのは、その教授と他のオペラの稽古の際、またイタリア語の問題に行き当たった時、「ここでもまた君は間違いを犯している」と言うのではなく、「これは僕らの問題だ」と言ったことです。お互いがお互いの意見を持っている前提で授業が行われているのです。
このような美学というか、認識があるから、自分を隠す必要がないのかも知れません。バスの中での助け合い、電車の中の騒ぎへの好奇心、授業での言い合い、街でのファッション、全てにおいて主張に満ちているのでしょう。
ダイレクトで主張に満ちているからか、ドイツ人のファッションは本当に人それぞれで、見ていて面白いです。決して全体的にファッションセンスがよいとは言えなさそうですが、十人十色とは正にこの事でしょう。東京だと、道行く人にけげんな顔つきをされてしまいそうな格好をしている人も少なくないですね。
もっともイギリス人などから見てもドイツ人はダイレクトすぎるということでしたから、ヨーロッパをひとまとめにすることは出来ないし、イギリス人からするとこのドイツ人の特性はあまりポジティブには見られていないようです。僕のレパートリーの先生はイギリス人で、ジョナサン・オールダーといってソプラノのチェリル・スチューダーの伴奏などで日本にも行ったことがある人ですが、声楽の伴奏で既にドイツ人とのつき合いがあったにもかかわらず、ドイツに住むようになってからドイツ人のダイレクトさに慣れるにはかなり時間がかかったと言っていました。ヨーロッパとはいえ、我々と同じ島国に住むイギリス人のものの見方は、これまた大変興味深いものがあります。
(1996.2 /2001.10.30掲載)