テレビでパリのシャトレ座での、R.シュトラウス作曲のオペラ「アラベッラ」公演が放映されました。僕はたまたま休暇でベルリン郊外の農村におり、自分のホームページもメールも見られない環境だったのですが、掲示板にTom der Reimerさんが情報を書き込んで下さっていました。Tom der Reimerさん、ありがとうございました。
さて、タイトルロールはカリタ・マッティラ、マンドリカはトーマス・ハンプソン、ズデンカはバーバラ・ボニーという豪華なキャスティング、指揮はクリストフ・ドホナーニ、演出はペーター・ムスバッハでした。
僕は何度も書いているとおり、このマンドリカという役はあらゆるオペラの役の中で最も愛情を持っている役の一つで「これはいつか絶対に歌いたい!」と思い続けていた「夢の役」でした。今年2月の、東京の新国立劇場公演でマンドリカを歌いましたので、もう「夢」ではないのですが、少し時間が経って冷静のあの時の歌や演技について考えられる様になってみると、やはりもう一度歌いたい役です。
この放送については、偶然テレビを見ていて知りました。我が家では長男が生まれてからテレビを見ることがほとんどなくなりましたので、これは本当に偶然に感謝しなくてはいけません。休暇中くらいテレビを見てみようかと、夕食のバーベキュー(しかし3日連続でバーベキューしてしまった・・・)の片づけが済んでからテレビをつけると、ザルツブルク音楽祭の歴史についての特集番組のようなものをやっていて、それを見ていたのですが、終了後にこの「アラベッラ」の放送予告が入っていたのです。
先ほど書いたように、僕にとって大切なオペラですから、それだけでもう興味をそそられるのですが、その上にマンドリカ役にトーマス・ハンプソン!
ご存じの方も多いと思いますが、トーマス・ハンプソンは今をときめくスター・バリトンです。オペラだけでなくドイツリートの分野でも極めて高い評価をされています。声だけでなくて容姿も芝居も良くて、まさに3拍子そろった歌手なのです。
でも、僕はちょっと、この人気に入らない部分があるのです。
まぁ歌手というのは嫉妬深い動物なので、同じ声部で、これだけ容姿も声も良くて大成功をおさめていて、伯爵令嬢と結婚して大金持ちでコンサートでは黄色い声援が飛び交うトーマス・ハンプソンの場合、世界中のバリトンを敵に回しているようなものですが、僕が気に入らないのはその辺ではありません。(その辺もあるかなぁ・・・)
でももちろんこれは、僕の全く個人的な趣味の問題なのでそのあたりはあらかじめご了承の上読んで下さいね。
ハンプソンがデビューした頃のバーンスタインと録音しているマーラーなどは、本当に素晴らしい演奏です。若々しい声で渾身の、しかも繊細でいきいき、つやつやのマーラーという感じです。この演奏には圧倒され打ちのめされました。
でも、段々この人の演奏は変わってきました。
言ってみれば、賢くなったのです。決して100%の力で歌わない。技術は申し分ないし、ドイツ語の発音もドイツ人の上を行くくらい明瞭だし、声量も豊か、音色も魅力的。そして何よりも音楽的。音楽的知性に満ちた演奏です。
でも僕は、最近の彼の演奏に「打ちのめされる」事がありません。巧すぎるんだな。
96年だったか、ミュンヘンの夏の音楽祭でハンプソンのリーダー・マティネー(昼に行われる歌曲のコンサート)を聴きました。ピアノはヴォルフラム・リーガー。リーガーは歌曲専門に活動しているピアニストで、僕自身共演の経験が何度かあります。僕が参加した89年と91年のミュンヘンでのハンス・ホッターによるドイツリートマスタークラスで彼は伴奏を担当していました。また東京の津田ホールでシューマンのリーダークライス作品24を演奏しました。彼はピアニストとしては珍しく「詩」に多大な興味を持つ人で、とにかく詩を読めと良く言っていました。今はベルリンのハンス・アイスラー音楽大学の若き教授です。この頃ハンプソンとリーガーはずっとコンビを組んでリートのコンサートをしていました。
プログラムはグリークやR.シュトラウスを含む多岐に渡ったもので、リートのコンサートでありながら堅苦しくない、エンターテイメント性に富んだものでした。特にR.シュトラウスのコミカルな作品は所作も交えて観客の笑いを誘っていました。このときは、彼の声量とダイナミックレンジの広さには圧倒されたものの、演奏としては今ひとつ満腹にならなかったのを良く覚えています。
ハンプソンはまた研究好きで、例えばシューマンの詩人の恋の通常の16曲でなく20曲バージョンを通常のバージョンと比較して演奏したり、知的好奇心も旺盛な上に研究に努力を惜しまない人のようです。オペレッタなんかも巧くこなす器用さも持っています。
でもやっぱりガツンと満腹にさせて欲しい!という欲求を満たしてくれないんですよね。彼のフォルテはちゃんと大きな音なんだけど、僕の心をふるわせる音じゃないんですよね。腹の底から出ていないと言うか、心の深い暗闇から出てきていないと言うか。初期の録音にはぶるぶる来たんだけど。心というよりは魂かな。
技術や、頭脳でやる作業が完璧すぎて、体、本能に訴える部分がおろそかになっている感じがするわけです。比喩的に言うならば「下半身」に訴えてこないんです。わかります?こういうの。
僕自身、結構頭でっかちだから、こういう風なバランスになってしまう危険を考える方なんですが、僕の場合はそれほど器用でないので、スマートなハンプソンの演奏スタイルは真似しようとしても出来ないでしょう。
わかりやすく言うと、あの初期の肉体性あふれる歌を歌って欲しいのです。それでハンプソンのことは興味はもちろん尊敬もしているし愛情もあるんだけど、それだけに妬みや憤りもあるわけなのです。
・・・今回のエッセイのテーマの前置きだけでこんなに長くなってしまった。さて本題。そういうわけでそのハンプソンが僕の「夢の役」マンドリカを歌うのは見逃せない。あと、ズデンカのバーバラ・ボニーも僕の師匠David Harperの門下生なので、彼女がいかなる声を出しているかはいつも興味の対象。バーベキューを早めに切り上げて腰を据えて見ました。
結果から言うと、素晴らしかった。何がってまずはマッティラのアラベッラ、そして演出がね。ハンプソンも良かったけれど、僕が持ち続けている不満に関してはいつもの通り。誤解を恐れずに敢えて言うならば、僕の欲しい音に比べて音響的に軽いのです。
フィンランド人ソプラノのマッティラは、僕の尊敬するウバルド・ガルディーニ氏の薫陶を受けていた人で、その点でも興味がありましたが、最近の活躍は目を見張るものがありますね。今回は声、音楽、ディクション、芝居のどれをとっても素晴らしかった。何より彼女においてはいつも彼女の人間性が彼女の表現の土台にしっかりと感じられるのです。高音ではビジュアル的にはちょっときつそうな場面もあったけど(でも音としては破綻にはならないんですよね。不思議)、とにかく言葉の細かいニュアンスと芝居のバランスが絶妙で、特に3幕最後のコップを持って歌うところは息を殺して聴き入ってしまいました。演出が時代をほぼ現代に移し替えていたことも助けて、アラベッラの上品なところはあまり強調されず、コケットな部分が前面に出ていました。でも音楽の持つアラベラの上品さは彼女に乗り移って彼女の声を媒体として客席にきちんと届いていたと思います。
そして演出。ムスバッハはこの2002/2003年シーズンからベルリンのシュターツ・オパーのインテンダントに就任した演出家ですが、今まではっきりこの人のものとして認識して見た演出はありませんでした。でもこの演出は各所に珠玉のアクセントを置いていました。
見たところ、舞台はホテルのロビーで1幕から3幕まで変わりません。えらく金のかかっている感じの質感のある壁やオブジェがある、高級ホテルのロビーを思わせる空間です。ト書きでは1幕はホテルのアラベッラの家族が住む部屋、2幕はフィアーカー・バルという舞踏会、3幕は1幕のホテルのロビーという設定なのですが、これをまとめて全部ロビーにしてしまった。
これによって、舞台上の人の動きが活発化し、通常の演出では見せられない人の動きを見せることに成功していました。例えばマンドリカの1幕の退場の場面では、マンドリカの合図で、荷物を持ったホテルのボーイの列がまるで大名行列のように舞台を通ります。マンドリカの「富」を効果的に視覚化していましたね。
アラベッラのモノローグの間もズデンカはソファーで座って姉が気が済むまで歌い(あるいは独り言を言い)終わるまで思い詰めた表情で待つ。これもズデンカのその後の行動へかける想いを巧く見せていました。
アラベッラの父親ヴァルトナーが一人で部屋に残っているときに、ホテルのボーイとのやりとりがあるのですが、これが音楽との兼ね合いで、良く不自然な芝居になってしまいがちなところを巧く解決していました。間奏が1小節くらいしかないのに、その間にヴァルトナーはボーイを呼んで、ボーイはドアを開けて部屋に入りヴァルトナーのルームサービスを承らなければならない。ボーイは常にヴァルトナーの部屋のドアの前に待機しているのでなければ成立しない状況です。
これをロビーにいるヴァルトナーが、ロビーを通りかかったボーイに注文するのであれば全く不自然な点は無し。よく考えてありますね。
時代も現代になっていて、フィアーカー・ミリなどはブレイクダンスでもしそうな勢いで出てくるし、上の方にエスカレーター(実は動かないので階段なのですが。ちょっと間抜けな感じ)もあるし、アラベッラへ求婚している3人の伯爵達はそれぞれトレンド・フォーマルとでも言うべき粋な出で立ちで登場して3人ともサングラスをかけているし。
現代化によって、アラベッラはよりコケットな女性となり、芝居はより自由になります。本質は同じものとして演出されていると思いますが、その勝手気ままな彼女の一面と、本当に心を惹かれる自分にふさわしい男性を見つけることに執着し、マンドリカにで会った後あっけないくらい心を開く、自分の生き方への真剣さの一面は、対比であると同時にアラベッラの人間性の幅を広げるもので、これは見事に演出されていました。
マンドリカとの二重唱の中で、この「自分にふさわしい人がきっといつか現れると思っていた」という部分を歌い上げて、自分でも訳が分からず涙が出てしまうと言う彼女の芝居は、アラベッラのある種複雑なキャラクターを集約した見事なものでした。
それから3幕のコップを持って現れるシーン。マンドリカがまだロビーにいるのを見つけて彼女が思うこと。僕は一度掲示板で、北さんとガレキの上のバカさんとのアラベッラの音楽に関する対話の中で、このシーンを「日常生活の中での哲学や深い感動」ってな意味合いで感動的なシーンとしてあげたのですが(脚注参照)、まさにこの驚きと感動をマッティラのアラベッラは表現していました。
僕がここのところ必要があって勉強を始めたのですが、ドイツの哲学者ルドルフ・シュタイナーは「自分の知っていることしか頭に持っていない人間はなんとちっぽけな人間だろう」と言っています。未知のものに対する畏敬の念が大事であり、それは純粋な驚きからスタートするプロセスですよね。「素直に驚ける心の柔らかさをいつも持っていたい」と僕は思っています。願っていたとはいえ、マンドリカがまだとどまっていたことに「驚き」を感じられるアラベッラは素晴らしい人なんじゃないだろうか。
アラベッラのキャラクターの中の対比という意味では、幕切れに階段の手すりの横をすべり台みたいに滑ってマンドリカの手の中に飛び込むところなんて最高ね。
さて、いくつか僕が見つけた、このムスバッハ演出の「みそ」。
3幕でちょっとあまり聴いたことのないカットが施されていましたが、芝居を見ていて理由がわかりました。ズデンカが実は女で、アラベッラとしてマッテオとベッドと共にしたのはズデンカだったという事が公になった後、アラベッラがひたすら謝る妹ズデンカに「もしあなたのその大きな愛情が許しを請わなければならないなら、マッテオに愛しすぎた事に対する許しを請いなさい」と言うところがあります。そうしてアラベッラはズデンカを小突いてマッテオのところに行くように即すのですが、ズデンカはまだ立ち上がれません。勇気がでないのです。そこでアラベッラは心を決めてマンドリカに声をかけ自分の手を差し出します。マンドリカに非礼をわびる機会を与えたわけです。ズデンカに「私がまず始めるから、あなたもついてきて」と言わんばかりに。
そもそも家計が傾いていた(と言うかほとんど沈没していた)アラベッラの家では、アラベッラの結婚だけが家族全員が離散もせずに幸せに生き続けられるチャンスだったわけです。アラベッラがマンドリカを許すことは、過ちを犯した人間を許すという事の素晴らしさとか大切さだけでなくて、その意味でもズデンカにとっては大切なことなわけです。
これに勇気づけられたズデンカは立ち上がってマッテオの方に向かうのですが、やはり気後れして途中で座り込んでしまう。
ここで今度はマンドリカがアラベッラのバトンを引き継ぎます。
マッテオの友人として、マッテオの手を取りヴァルトナーのところに導いて求婚の手引きをするのです。
今回のカットでは、この行動のラインが実にうまくリズミカルにつながって、家族の絆を如何にそれぞれが大事に思っているか、そしてそこにマンドリカが参加していくというのが絶妙でした。
それからこの演出ではマンドリカは3幕で一応スキャンダルの片が付いた後に一度去ろうとします。でも思い直して、あるいは期待を捨てきれずにロビーに残るのです。これは行動としてはとても自然なことで納得が行きます。このあたりの芝居がハンプソンはうまかった!去ろうとして、「でも・・・」と立ち止まって戻るあたりは絶妙でした。そしてロビーのソファーに座るのですが、ここがまたうまい。背もたれのところに手をついてそこに頭をのせてうたた寝を始めるのですが、その手ののせ方を、背もたれの感触を確かめるように何度も手をつき直してからもたれるのですが、その「手のつき直し」の中に、僕はマンドリカの「今夜はここで夜を明かすぞ」という決意を見るのです。これは素晴らしかった。大富豪のマンドリカですが、ソファーの上の居心地悪い夜を自分に対する罰として課すわけですね。
そしてアラベッラが歌い出してもしばらくは、アラベッラが戻ってきたとは認識しない。まるで夢の中に響く天使の声のように彼にはきこえたことでしょう。いやーしびれた。
あと、ズデンカの芝居も、僕は従来やられている芝居に大いに疑問を持つところがいくつかあるんだけど、この演出の中では時代の移し替えと共にうまく処理されていました。
これだけ感動して置いてなんなんだけれど、疑問もなくはないです。
合唱がいるはずのところで舞台が空だったりする箇所がいくつかあったんだけど、僕はこれはやはり納得行かない。僕はオペラ音楽の持つ「論理的力学」みたいなものがあると信じているんだけど、大勢の人が舞台にいるように書かれている音楽には、「大勢の人」の力学が働いていて、それは舞台の上に人がいないと空回りすると思うんです。
時代をうつすというのも同様な問題があって、時代考証をあえて拒否することで、音楽の中にあるスタイル感から解放されようと目論むわけですが、これは音楽から自由になるとともに、音楽を壊す、あるいは音楽と一貫性のない芝居、表現を産む土壌になるのです。
例えばアラベッラの音楽が持つ上品さをうまく弱めてコケティッシュな面をクローズアップしたのはうまかったけど、これは音楽の規定する、あるいは音楽が醸し出す雰囲気や条件から外れて行くわけで、必ずしも良い結果にはなりません。今回のアラベッラに関して言えば、大きなポジティヴの効果ももたらしたけど、やはりマイナス面も見逃し得ない感じ・・・。
これは僕にとってはジレンマですね。ドイツでの前衛的な演出の限界でもあると思うし、言い方を変えれば、僕の考える「劇場」のあり方の中に今の演劇主導のドイツのオペラのあり方の接点を保とうとする努力の限界も感じるのです。これについてはまだ結論を出せないのでこれからも悩み続けなくてはと思っています。
注)掲示板での発言
北さん、ガレキの上のバカさん、アラベラの作品について
おっしゃることは大変良くわかります。
まぁ僕の専門はアナリーゼじゃないから、あまりそういうスタンスでものを言わないほうが良いかも知れないけど。
でもちょっと思うのは、R.シュトラウスが自分のスタイルが産む独自の雰囲気や音楽的効果を完全に客観的には見ていなかったのでは、あるいは、そんなのお構いなしに自分の表現したいテーマを自分の音楽との相性はかまわずに作曲していたのではないか、ということです。
インテルメッツォなんて、やっぱりかなりそういう意味での違和感あるでしょ?でも僕はやはりあの作品大好きなのです。
サロメに関して、どの本だったか忘れたけど、あの題材だからR.シュトラウスが意識して二重調性を使うことを決心したという手紙かなんか読んだ気がする。あれがあまりに作品として成功してしまったから、あれがR.シュトラウスの本領だという話になりやすいけど、ぼくはどっちかというとばらの騎士の、ワルツとかそういう既存のものへの彼独自の態度や扱い方などに彼の本領があると思っています。
彼の音楽はその意味でも前衛だけど、言い換えれば、それはとてつもなくロマンティックなのです。肥大しきった後期ロマン派の粋ではないでしょうか。
生活の中にこそ、哲学や深い感動がある、と僕は信じています。生活感のある空間に感動がないとは思えません。我々が日常の中でも哲学の深淵や生命の奇跡を感じられるようにです。
マンドリカが、水の入ったグラスを持ったアラベラが階段の上にいるのを見たとき感じたのは、一人の男が単にプロポーズへのYESをもらったというのではなく、自分の世界観がひっくり返るような感動だったのだと思います。それにはあの音楽こそがふさわしいじゃないですか!
(2003/7/28)