JR宝塚線の脱線事故

ニュースサイトを見てびっくりしてしまいました。JR宝塚線の脱線事故ですが、本当にひどい事故が起きてしまいました。日常のなかの一こまである電車通勤というものがこんなにもひどいことになり得ると言うことに、驚きとともに怒りを憶えます。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、負傷された方の一日も早い肉体的、精神的回復をお祈りします。


ちょっと前のエッセイ(ここをクリックでジャンプします)で「改善」「向上」という事について書いているのですが、この「向上は本当になくてはならないのか」という事について、この間も知人と討論したところでした。その時に、僕は「日本の新幹線は今時速400kmで走る新型を開発している。空気抵抗のブレーキや振り子式の車両開発などで、今までより早くカーブを曲がり、たとえば大阪に5分つくことに、それに伴う危険などに見合うメリットがあるのだろうか?」と僕は言ったのです。新聞記事によれば、「スピードを落とせば安全性向上につながるが、各社は「速度を上げても安全性は確保できる。スピードアップには社会的なニーズがある」などと口をそろえている。」とのことなんです。
5分早く大阪に着いたら、その人達が5分大阪でのんびりとか、その5分を有意義に使えるかというと、案外そうじゃないと思う。まぁこれはこの問題の本質ではないかも知れないけど。
で、僕と話した知人は「メリットはある。絶対に進歩は必要だ。例えばドイツの原子力。環境保護の勢いに負けてやめてしまったが、それによってドイツの原子力技術は止まってしまう。これは馬鹿げたことだ。技術の進歩は絶対に必要なのに。いけないのはこれらの進歩を悪いことに使う人間がいることで、進歩そのものじゃない」と主張します。
勿論これはわかります。でも、技術というものを悪いことに使おうという人はいなくならないし、「そいつらが悪い」と言ったところでなんの助けにもなりません。悪いのは確かかも知れないけど。
やっぱり僕は、技術の進歩がなくても、人間が人生の質を上げることは絶対に可能だと思うんだけど。逆に技術が進歩し続ける限り、質の向上は難しいのでは?と思うくらいです。「モモ」に出てくる灰色の男達に追われて、駆り立てられながら生きている限り、人間は「質」を向上させることはできないように思うのです。今度の事故でも、競合する私鉄に勝つために、増発、高速化し、タイムテーブルを厳守しないといけないという焦りが、オーバーランでの遅れを取り戻すための速度超過につながった可能性が指摘されていますね。
僕がこんな事を書いても、かけがえのない人を亡くされた遺族の方の痛みを軽くすることはできません。でも僕は興味本位でこの事を考えているのではなく、本当に何とかならないだろうか、と思っているのです。僕が具体的にできる事というのは本当に限られているけれど。

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