ロンドンももう7日目だ。明日はゲラに戻ります。スタンステッドからライプツィヒに飛んで、空港に置いてある車を運転して、ゲラに着いたら多分日付は変わっているでしょう。
昨日まで5回、合計9時間のセッションがありました。いつもの事ながら、本当に来て良かったと思ってます。日本で歌うヴォータンも一通りやったし、あとイタリアオペラのレパートリー、ドイツ歌曲・・・夏のデュオ・リサイタルの曲目・・・も技術的にチェックすることが出来ました。
今日はレッスンがもう無い日なので、少しゆっくり寝て、今はスターバックスでこれを書いております。さっきまで、夏にデュオ・リサイタルで歌う曲目の移調譜を作っておりました・・・。もう3ヶ月無いのにね。容子さん、遅くなってごめんよ。でも移調譜が出来ていないのはこの一曲だけです。後はもう作ってある。
でも、せっかく移調譜を作ってあるR.シュトラウスの歌曲「君の青い瞳で (Mit deinen blauen Augen)」は、昨日のセッションで原調と低い調を両方やってみて、どうやら原調でも十分いけるという結論に達してしまい、移調譜を作ったのは無駄だったかも知れない・・・。まだわかりませんけどね。日本に戻って湿度も違うし、合わせもしてみてから決めようと思いますが。Davidも「原調で全然いけるじゃんか」というし、僕は元々これは原調で歌いたかった曲でもあり・・・うーん。どうしようかね。リスクではある。はっきり言ってテノールの音域ですからね。でもヘルマン・プライは原調でレコーディングしております。ちなみにディースカウは僕が下げた調よりさらに下げて歌っている。ディースカウは高音持っているのにね。下げすぎていて、まるで違う曲のようです。ちょっと分別くさくて「君がその青い目で見つめると、もう僕は喋れなくなっちゃう(口語訳)」というときめきみたいなものは全く影を潜めてしまっています。だから僕は原調で歌いたいんだけどね。「椿姫」のアルフレード(テノール))のアリアの最高音と同じ音ですからね、これ。うん。もうちょっと考えよう。
さて、「セッション」という言葉を時々使っておりますが、これはデヴィッドがこう言うので僕も言ったりしています。まぁレッスンのことではありますけれど。
ちょっとこれについて考えてみました。
僕はもうオペラ歌手を20年近くやっています。最初はそれで食べてはいなかったかも知れないけど、「君のオペラデューは?」と聞かれたときに一応僕は、仲間とやっていたオペラグループ「カンタンティ・コミチ」という団体の1989年のオペラ公演「フィガロの結婚」を挙げることにしています。18年前ですね。
今は、主にオペラの舞台で生計をたてているので、職業を聞かれたときは「オペラ歌手」と答えていますが、ご存じの通り歌曲などの演奏も多く行っております。
こういうプロフェッショナルな歌手が、まだ「習っている」というのは、場合によってはイメージとしてしっくり来ないんじゃないか?とふと思ったのです。それに加えて、僕は最近日本で教えることも始めたし。教える人が習ってる?というような違和感です。
こう言い切ってしまうと言い切りすぎかも知れないけど、この僕のホームページは「公式サイト」であって、言ってみれば歌手としての僕の営業の一部なわけですね。だから、そこでやはりかけない事というのはかなりあって、インターネットの社会というのも一頃よりはましとは思いますが、やはり秩序がはっきり整備されてはいないし、匿名性は必要だし・・・と、僕のサイトも現実に何度かトラブルに巻き込まれております。人によってモラルが違うからなんですよね。
で、そこで僕が「習ってます」と大っぴらに書くのは、これはどうなんだろうと、書いてみてから考えてしまったわけです。うーん。かけないことはかなりあるとか書いておいて、でもずいぶんこれはオープンに書いちゃってますが。まあいいでしょ。たまには。
現実に目を向けると、僕は今40歳ですが、歌手としては当然まだ発展途上です。(と、願う部分もある)でも、僕が学生の頃はもちろん、歌い盛りの40歳くらいの先輩歌手の皆さんを見ていて、この人達が誰かのレッスンをまだ受けているなんて、想像できなかった。
まぁどういうレッスンか、という事もあるんですけどね。
僕のヴォイス・トレーナーであるデヴィッド・ハーパーは、まず、歌手ではありません。ここがまずちょっと変わっている。元々職業的にはピアニストで、コレペティを経て声楽技術に興味を持ち、解剖学的なところから研究していって、今はヴォイス・トレーナーとしての仕事が多いわけです。プレーヤーでもありますが・・・2004年には東京で僕も共演した・・・言ってみれば「技術屋」なわけです。技師というか職人というか。音楽性とまずは切り離したところで物理的に声がどう発声されるべきかのプロフェッショナルなんですね。
最近そうでもないけど、日本ではこの辺の区別があまりないことが多いですね。「ドラマトゥルグ」と演出家の関係もそう。これに関しては朝日新聞に面白い記事が載っていたと思う。簡単に言うと、演出家を知恵袋としてサポートしたりするのがドラマトゥルグです。去年の日生劇場の公演では、山崎さんという方がドラマトゥルグとしてプロジェクトに深く関わっておられました。日本では珍しいケースだと思いますね。
声楽で言うと、ヴォイス・トレーナー(発声技術)と声楽教師(音楽解釈)、ということでしょうか。ヘルマン・プライが東京芸大で公開レッスンをしたときに、発声技術のことが問題になると「これは技術的なことだから僕は触れませんが」と言っていたのが印象に残っていますが、日本だと両方を、自身が歌手である教師の方が教えることが多いように思います。
デヴィッドについて、僕が本当に心から尊敬できるのは、彼は音楽から何かを自分の意志で作り出そうとはしないことです。彼は「読み出す」事しかしない。自分が今取り組んでいる音楽作品が何を求めているのか、それを読んで、実現させる。そのための技術を完璧に持っているのです、彼は。これは、簡単なようで本当に難しいことです。
声の職人としての彼は、色々な音楽スタイルと体の構造、働きを研究し尽くしていて、どの時代のどの原語の音楽ではどんな響きが必要か、そしてその響きはどの筋肉をどう使って生み出すか、これをてきぱきと示すことが出来るのです。
プレーヤーとしても、もちろん自我はあるわけですが、ここでも彼は音楽作品が何を求めているかを読むことに意識を集中させます。だから曲を「利用」して演奏家の自己顕示欲を満たすような演奏とは一番遠いところにいる人です。素晴らしいことです。僕もこうありたいと常に願っています。舞台表現者がこういう仕事をするとき芸術の向こうにある秘密が姿を現し、舞台に「劇場の神様」が降りてくるのです。神憑りな演奏が現出するのですね。その意味では舞台、ひいては表現者の肉体は、劇場の神様の降りてくる神殿となるべきなのです。
神殿となるには、もちろん技術を磨くこと、メンテナンスも必要です。僕はある先輩歌手に、「何年もレッスンに行かないのは良くない。常にチェックをしてもらえる環境にするべきだ」とおしかりを受けたことがあります。僕にはもちろん意味がよくわかりますし、僕のことを考えてくださったからこそこう言って下さったのだと思うので、とても嬉しかった。
ただ、僕としては、自分と違う個性が導き出したものに恒常的に自分を浸しておくのが辛いときがある。さんざん書いたとおり、デヴィッドは心から尊敬しているし、信じてもいるけれど、やっぱり僕自身の体は僕が管理するべきだし、そのために頭を整理してから彼のもとに赴く今のペースが気に入っています。まぁ3年あけることはなかったかも知れないけど。
デヴィッドとのセッションで得たものを、自分の言葉で理解し、咀嚼するには結構時間がかかります。複雑でもあるし。あえてカタカナ使わないで訳すと「喉頭輪状軟骨を十分下げた上で喉頭甲状軟骨を若干傾け、横隔膜の緊張は緩やか目に、しかしきちんと保ちながら右脳からの音程情報を無意識のうちに喉頭に送り込み、声帯の縁だけを鳴らしはじめる。その際に咽頭の縦の長さを十分保つことに意識を集中させて・・・」とか、そんな感じのレッスンなわけです。用語がわからないとまず何も始まらないんだよね・・。それから彼はイメージをレッスンで使うことをあまり好まないのです。言語というのは機能に限界があるからイメージ、比喩を全く使わないのは無理だけど、極力避けて具体的な筋肉の使い方に重点を置きます。
音楽というのは最終的には肉体性なので、あまり知性ばかり使う状態では舞台に上がれないわけです。ある程度自動化され体にはいっていないと舞台での実践は無理。そのためにさらうわけですね。
話を戻しますが、こういう技術メンテナンスは、一流の歌手も・・・というか一流の人こそ常に危険にさらされているので・・・定期的に行っている人が多いですね。デヴィッドはこの後6月後半はまたスウェーデンに行くようです。彼の弟子の中で多分一番有名な人の一人、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターとのセッションのためです。オッターとはいまだにかなりの頻度でやってる見たいですね。バーバラ・ボニーとも最近はよく仕事している。ピアニストとしてコンサートも一緒にやってるようです。
僕は今回初めて、デヴィッドにはっきりと言ったんだけど、この独特の声楽メソッドはもっと広まるべきだと。彼の弟子、仕事相手はみんな歌手で、もちろんその歌手たちも何らかの形で教えることをしているとは思うけど、僕の感じからすると、彼のメソッドを本当に継承するには、歌手が自分の歌・レパートリーだけを通して彼から習うだけじゃ不十分なんですよ。僕はバリトンだから、ソプラノやテノールしか使わない技術はセッションの中で話題にならない。だから万全にこのメソッドを継承できない。それに、僕が無意識に出来ていることはデヴィッドは全然指摘するわけもないから、僕が無意識に出来ていることが出来ていない歌手を僕は教えられないことになってしまいます。
僕がレッスンをしていることは彼にも言ったのだけど、今回は特にその辺もクローズアップして、色々なケースで対処できるようにと、デヴィッドを質問攻めにしてきました。他のタイプの肉体、声帯でどんな作業が必要になるかは、僕にとっても有用な情報なんですよ。事実2004年の夏に東京でデヴィッドのレッスン通訳をしたことは、僕にとってかけがえのない経験になりました。ハードだったけど・・・。英語の通訳をするとはね。
今のところ職人、技術屋としてのデヴィッドの弟子はいないそうです。だれか、この仕事、しませんか?歌手として歌いながらだと、なかなかなぁ・・・。
今回はセッションの準備にかなりの時間を費やして、喉の部分の構造図とかそういうものも用意して、長大な「質問リスト」も作成したので、時間を変に浪費することなく、ほとんどの疑問が解決して、大変満足しています。今までは、僕の体を通して僕における理想的な音響を発生させる、と言うやり方のみで答えをもらっていたわけですが、今回は理論的に、僕には比較的関係の薄い部分も明らかに出来て、彼のメソッドの全体像がかなりはっきりしてきました。
もちろん僕が現実に舞台で歌うものも重要ですから、今回はスカルピア、ヴォータンもバッチリ見てもらいました。ヴォータンは、僕が歌い得る役柄の中で最大限に重い役だと思います。体全体の共鳴を余すところ無く使い切るようにしないと、ヴァーグナーが思い描いた「主神ヴォータン」のキャラクターは出てこないと思いますから。「こういう役柄の場合は、一定期間この役のウェイトに集中して体を作り替えるくらいの覚悟が必要だ」とデヴィッドも言っていました。「ハリウッドの映画スターが役柄に合わせてやせたり太ったりするのと似たようなもんだよ」とのこと。この意味では、冬に日本に帰ってヴォータンだけに集中できる環境はある意味で理想的です。
さぁ、今回の成果を自分の頭と体でもう一度整理し直す作業が待っています。大変な作業ですが、エキサイティングな作業でもあります。頑張るぞー。
有名な歌手でもレッスンを受けると言うことは、知っていました。歌手としてはあまり知られたくないことかもしれませんが、ベヴァリー・シルズが自伝の中でレッスンのことを書いていたのでプロでも学ぶことはいくらもあると言うことを知りました。だから今回のブログはとても興味深く読ませていただきました。
>ともさん
興味を持っていただけて良かったです。野球選手でも個人的にトレーナーを雇っている人もいますもんね。やっぱり肉体労働者だし、微妙なところで結果が大違いになりますからね。第三者に助けてもらうことは重要なんですよね。
今回のお話、声を扱う者として面白かったです。
最近小森さんのお声、拝聴してないんですが、これからゲラの劇場も行かなければと思ってます。ゲラの場合、週末公演がほとんどなので僕には難しい場合も多いのですが、日曜午後の公演でも、と思います。というのは、僕が外部から見ていても、最近ゲラの劇場に勢いが出てきたのははっきりと感じ取れます。オケの演奏会はいつも行ってたけど、これからはオペラも見逃さないようにと思います。
ヴォータン、、、今月から再演だけれどうちから近いニュールンベルクがリングやるんですよね。中にはけっこう有名な人もいて、ラインゴールドなんかハルトムート・ウェルカーがアルベリヒで。クリストフ・プリック指揮。娘とまずはラインゴールド、観てきます。これは健登君にもお勧めなんですが、子供向けの絵本でリングの物語があるんです。これは大人が読んでもけっこう面白いものです。うちの娘もそれ読んでリングのファンになりました。小森さんのヴォータン、見たいな。ゲラ、そのうちやらないかな。。。。
>Tomさん
次はVanessaのゲラ再演ですね。これは音楽も演出も複雑だから結構大変です。あと、テアター・オスカーの授賞式を兼ねたオペラガラコンサートがありますね。
ニュルンベルクの指輪ですが、我らがカヴァラドッシのリカルド・タムラ氏がフローを歌いますよ。
ゲラでは、実は一度ワルキューレは候補に挙がりました。オランダ人に化けましたけれど。もしあのとき無理矢理ワルキューレをやっていたとしたら、僕はヴォータンを歌うことになっていましたが・・・。正直言ってあのときやらないで良かったですよ、ほんと。
同じ門下と言うのも実力が雲泥の差なので恐縮ですが、DAVIDコーチの生徒さんは、最低ランクでも音大卒業レベルだと認識しております。生徒と言ってもほとんどが小森さんのようなプロで活躍されている歌手ばかりだと思われます。
声の職人・・・全く同感です。コーチに「キミは作曲家に失礼だ」と何度怒られたことか(汗)
日本でレッスンをされるのをとても楽しみにしております。
>姉御さん
そうですね、確かに歌を始めたばかりの人というのは対応が難しいケースもあるかと思います。でも、逆に・・と言うか、アマチュアの方で長くやっていらっしゃる方には結構すっきり受け入れられるケースが多いんです。面白いですね。
歌う、と言う経験の長さが関係あるのかな。
デヴィッドって結構かっとなりやすいでしょ。怒鳴りだしてその勢いでそのまま続けると、悪循環に陥りますよね。
もし怒鳴りだしたら、「ちょっと待った」と言って数秒深呼吸したりしてからリスタートすると、彼もその間に少し落ち着くんだよね。今度試してみて。(デヴィッドには内緒)
日本でのレッスンですが、もう時間組とか日程を組み始めていますので、ご希望の方はご連絡くださいねー。トップページからフォームメールのページにいけますから。