少し前のことなのですが、僕が大変お世話になったドイツの指揮者、ロルフ・ロイター氏が亡くなりました。80歳だったとのことです。ライプツィヒのオペラハウスのGMD(総音楽監督)を17年間、ベルリンのコミシェ・オパーのGMDを13年勤めた、まさにドイツオペラ界の重鎮です。
ロイターさんは、僕をこの劇場に連れてきた人です。残念ながらオーケストラとうまくいかずにGMDへの就任を見送り、この劇場で一緒に仕事する機会はありませんでしたが、コンサートなどでご一緒できました。
ロイターさんとの出会いは、ラインスベルク音楽祭でした。僕がラインスベルク音楽祭で歌っていたのをロイターさんが聴いて、そのあとすぐに楽屋にいらして「ゲラの劇場のオーディションを受ける気はありませんか」と言って下さったのです。これはラインスベルク音楽祭の主催者であり、この間うちの劇場で初演したオペラ「Cosima」の作曲者でもあるマットゥスさんが、「是非このバリトンの声を聞いて欲しい。」とロイターさんに薦めてくれたんです。
ロイターさんは、2000年から、アルテンブルク・ゲラ市立劇場のGMDに就任することになっており、自分のやりたいオペラ・プロダクションのための歌手を探しているところでした。僕はもちろん、喜んで、とお答えして、すぐにゲラのオーディションを受け、採用されました。
ところが、ロイターさんはその後、ゲラの劇場のオーケストラとトラブルがあり、GMD就任を見送ってしまいました。この間同僚の指揮者から聞いたのですが、2000年からインテンダント(総裁)に就任したセルシュ・ムント氏がオーケストラに問い合わせずにロイターさんのGMD就任を決めてしまい、これを不服としたオーケストラのメンバーが「うちのGMDになるつもりなら、ゲラに来て振って見せて下さい」というような手紙を出したそうです。つまり、指揮のオーディションをするからゲラまで来い、ということです。まぁすごいですよね。ドイツオペラ界のトップのキャリアを持つ指揮者に、オーディションを受けろ、というわけですから。この手紙を受けて、ロイターさんは就任を見送り、僕が来た最初のシーズンはGMDは空席でした。
僕はこの事件が起こった頃は日本にいました。健登の誕生を挟んで半年、日本で仕事をしていたんです。この間、ちょっと自分のレパートリーを整理してみたところだったんですが、この半年間に僕は5つのオペラに出演しています。ちょっと異常なペースですね。「秘密の結婚」ロビンソン伯爵、「サロメ」ヨハナーン、「オルフェオとエウリディーチェ」オルフェオ役、「フィガロの結婚」アルマヴィーヴァ伯爵役、「カルメン」エスカミリオ役。忙しくて、ドイツの、これから就職する劇場の事情など知るよしもなく・・・。
僕を呼んでくれた人がいない状況でスタートする劇場生活は不安でした。ちょうどその時、肩を骨折したりしたこともあり、僕の人生の中で一番弱気な時期だったかもな。
ロイターさんはオーディションで僕を聴いて「あなたとリゴレットをやりたいが、あなたの先生はリゴレットを歌っても良いというだろうか」と訊ねてこられました。僕はたまたまその直前のレッスンで、Davidと「リゴレットは行けるだろう」という話をしていたところで、それを快諾して、本当にロイターさんとの共演を楽しみにしていました。
でもロイターさんとのオペラでの共演は実現しませんでした。
そのあとも何度も、僕にリクエストは出してくれて、ツヴィッカウ市立劇場でのタンホイザーでのヴォルフラムとか、いろいろ話はあったんですけどね。残念でした。
唯一実現したのはゲルリッツでの、ヴェルディ・ガラコンサート。(日記があります)ここではリゴレットのアリアや重唱、ナブッコのアリアなど、たっぷりロイターさんとの音楽を満喫しました。車で稽古場までお送りしていて、いろいろお話も伺えました。三島由紀夫の大ファンで「日本人のくせにミシマを読まないとは何事か!」と怒られたりしたこともありましたね。日本ではブルックナーの交響曲第6番を日本初演しています。東京都交響楽団だったそうです。
うちの劇場の主任コーチで常任指揮者のトーマス・ヴィックラインが、ドレスデンでのお葬式に参列したそうで、様子を教えてくれました。ロイターさんの遺言なのか、バロックを中心に沢山の音楽がロイターさんの子供、孫、生徒によって演奏され、楽しく明るい音楽ばかりが選ばれていたそうです。ロイターさんの奥様は、僕の上司であったブリューアー教授のお葬式で長い長い演説をされたのですが、この時に演奏をした僕にわざわざ言葉をかけて下さったので、僕はドレスデンまで行けませんでしたがトーマスに、ご挨拶を託しました。
心からご冥福をお祈りしたいと思います。ロイターさん、安らかにお眠り下さい。